明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十七章 趣味(下)- 2

 私の所持品での珍品は明治四十二年十一月の北米合衆国艦隊歓迎の特別乗車券だ。鉄道院発行で一方には桜の枝を刺繍してあり、もう一方にはビロードに嵐山の風景を描いた二つ折の豪華な物、この外に矢張り二枚折絵葉書大の綺麗な印刷の乗車券と、もう一枚、合計三枚の乗車券で鉄道省でも保存していない物で自慢の品である。
又御大礼記念乗車券では宮内省関係から陸海軍省発行の特殊券に至る迄殆ど網羅しており之も自慢の一つである。

この外明治三十七年二月の日進、春日両艦廻航員諸氏優待乗車券や記念、特殊券類は数千種に及んでいる。中には得難い珍品もあれば奇品もある。兎に角私としてはこの乗車券蒐集には少なからぬ金も費ってきた。他人から見れば紙屑に等しい物ではあるが、それでも色々研究してみると、これ等も有意義な資料となり交通関係の重要な参考資料にもなる物だ。

折角集めた物なので、これを利用しなければ真の紙屑となって終う。只集めるだけが蒐集家の能ではない。数に於いても、それ丈けが誇りではない。

これを活用する事も蒐集家の責任である。この頃私の発案で山本、中山の両氏と共に「特殊並びに記念乗車船券年表」という夫れ等の発行年度、略解、形状、発行所等を詳細に調べ年表を作り蒐集家の為並びに各関係者の参考に供しようと目下編纂中で、やがては印刷をして発売する考えである。

尚交通券に就いては多納趣味会発行の多納趣味誌に「交通券の蒐集に就いて」(昭和二年六月第二号)と題してその後(一)~(十)迄掲載されている。特に三巻一号、二号の大礼記念乗車券の記事では同好者に多大な貢献をした。

尚この外に「御大喪に関する交通券及其印刷物に就いて」と題して大正天皇の御大喪に関する宮内省大喪用及び各会社の乗車券に就いての記事も掲載した。

 昭和三年四月中京毎日の夕刊紙上で、「名古屋に盛んな珍品奇品集め」の一人として、こんな記事があった。

 *交通券では全国的に有名で大阪の山本不二男氏と東西横綱と称される大家に東区田代町 曽我年雄氏がある云々、又其の後昭和五年六月十七日の蒐集趣味座談会(名古屋新聞社主催)で三田麗人氏は、お次は交通王の曽我さん云々と横綱にされたり交通王にされて終った。

又昭和十二年十月三十一日の名古屋新聞では「街の名物」欄で交通券の蒐集家では日本ではピカ一と祭り上げられた等光栄の至りである。

以上の他交通に関連する文献や錦絵迄も集める様になった。

 

 

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第十七章 趣味(下)- 1

   蒐集趣味

 蒐集趣味は始めは月並的に郵便切手やマッチのレッテルに始まり段々と集まった物の中で自分の趣味に一番合った物が残って、これを熱心に集める様になるものと人が集めている物では面白くない何でも人が集めていない物を選んで集め度いという好奇心による物とがある。私も始めは一番手に入り易い郵便切手やマッチのレッテルを集めていた。所が之は大抵の人が集める物で割に簡単で金を出せば幾らでも集める事ができる。

それならば金持ちには、とても叶わないし趣味として多くの金を出して買ったりしたのでは面白味も無いので何か他の人が集めて居ない物を集めてみようと考えている内に社用で旅行許りしていた私はその内に乗車券や急行券等が手に残る事があり、それが二枚になり三枚となり半年も経ってみると相当の数になり電車の切符等は夫れぞれ種々の模様も入って地方々々の特色を現わしているし又時々は記念乗車券等の発行もあり仲々面白味もあり研究してみると鉄道の切符でも常に変化がある。

駅名を平仮名で記したものが漢字となり、それが左書きとなったり太字となり細字となったり何時も一定でない所に面白味を感じボツボツ集める気になって来た。そして未だ世間の人が余り多く此の方面に興味を持っていない様であった。

そこでアメリカへ行く人に外国の物を依頼して集めて貰い等して一、二年の間に二百、三百と集まって来たので、いよいよ本格的に集める事となった。

 さて専門に集めかけると困難な事情が沢山あって容易では無い。第一乗車券は有価証券に等しいもので又乗客の手に残る物ではない。それを手に入れるのであるから非常手段とも言うべきか時には不正という事も伴ってくる。然しその気になれば不思議な物で他人が驚く様な事をして集めてくる。そして自分が欲しいと思う物は必ず集めて終う。無賃乗車證等は特に入手困難である。けれども十中八、九迄は必ず集める事ができる。其れにはそれ相当の苦心も努力も必要である。

又常に心掛けて居なければならない事は全国の会社の創立、各軌道の新設又は延長、期限付き特殊乗車券、或は記念に発行される物等々、No.1 の乗車券を入手しようとすれば、この頃では殆ど死に物狂いの状態で少し馬鹿々々しい感じもする。

 大阪に山本不二男君という大蒐集家が居る事を知ったのは大正三、四年頃であった。

又横浜に中山沖右衛門という同好の士を得たのも、その頃であった。

兎に角大阪に山本、横浜に中山、中京に私と言われる迄になったのも御互いに授け合って蒐蒐に努力したからである。三人共に今では元老格を自認している。又所持の種類、数量も御互いに十万以上で一々カード式に整理分類して保存している。

 

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第十六章 趣味(上)- 3

筆で所感を記す事も「筆まめ」な性質なので暇さえあれば何か書いてみたくなる。

 明治三十六年十二月頃、大阪新報(時事新報と姉妹関係の新聞)で翌三十七年の辰年に因んだ御伽話の懸賞募集があった。早速応募した所当選して一月末の新聞紙上で発表された。

題名は「龍の天上」という題で一匹の龍次郎という龍の子供が乙姫様に天上したいから暇を下さいと頼んだが年が若いからと許されなかったので友達の鰐と相談して東京へ出て一軒の紙凧屋へ行き主人に頼み込み自分は秘術を使い紙凧に貼りついた。そして元旦に太郎君に買い取られた。それを知らない太郎君は喜んでそれを揚げた所他の物より高く揚がって行くので大喜びだった。一方龍の龍次郎君はもうこの辺りなら充分天上出来るだろうと思い元の姿に戻ろうとしたが糸目で結びつけられているので体の自由がきかず、もがいている内に凧はグルグル回って真逆さまに不忍池の中へ落ちて終った。これが今ある不忍池の弁天様だ、という筋書きだった。若葉子の筆名であった。

 これより先明治三十四年頃美術学校時代には短編小説に熱中し「無花果」(いちじく)「さがのゝ嵐」「男ごころ」等数編がある。こんな事で広津柳浪先生には一方ならぬ指導を受け又巌谷小波大町桂月幸田露伴の諸先生にも知遇を得て文学的に得る所が多かった。

尚其の頃新体詩という作詞が大流行したが之にも手を出してみたものだ。

日露戦争の頃には軍歌も多く作られたが名古屋の〇〇館という本屋から軍歌集が発行された時、砲兵少尉の名で「砲手の譜」「封鎖の決死隊」等二、三篇を発表した。

又東京の本店詰めで在勤中明治三十九年八月十一日、本店の有志五名と一名の客員と共に富士登山をした時には編集並びに口絵、記事を担当して「富士美也兮」(ふじみやげ)という美濃版の紀行文を刊行し又翌四十年四月二十七日には同僚五名で信州浅間山を踏破した時これ又「浅間美也兮」と題して前同様印刷して記念旁々知友に配った。

その折諸先生並びに先輩諸氏の批評の中に幸田露伴先生は「前略 慾には最少し篁邨式、十九式を少くして、ホトゝギスの写生文式の分量を多くして慾しく感ずる云々」とあった。

其の後大正七年八月十六日私一人で富士の裾野巡りをした時の紀行文を同十一年に単行本として印刷した。「すそ野みやげ」として其の一日、籠坂峠、其の二日、青木ケ原、精進湖、其の三日、富士風穴、裾野、其の四日、箱根越の六章に分けて記した物である。知友及び希望者に頒布した。

多納趣味、第七巻第一号(昭和八年三月発行)の明治文化を飾る陸と空との交通機関「汽車の開通」「維新前後の文献より見た軽気球」の二編は私としても自信のある文献であると自負している。尚この他に、これから印刷したい物に次の数編がある。

   一、曽我月山と徳丸翁(十三篇)                (脱稿)

   一、明治文化資料錦絵解題略   (錦絵種類別年表  七篇)  (脱稿)

   一、特殊並びに記念乗車券年表                (編纂中)

   一、自叙伝                         (編纂中)

   一、幸臨鉄道開行式                  昭和三年一月発行

   一、多納趣味       投稿 自一巻  至七巻  自昭和二年六月

                             至昭和八年三月

 

 

 

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第十六章 趣味(上)- 2

或日このカメラについて面白い話があった。アメリカの或郊外へ出かけた時の話である。

夏の始めの日曜日であった。私はA君と例のカメラ(このグラフレックスは千分の一秒まで写す事ができる物で形は大型で然も原版は一枚一枚の枠に入っているので一ダースも写そうと思えば相当大きな箱が必要で長さ二尺幅六寸高さ一尺位(六〇糎X二〇糎X三〇糎)のズック張りで必要な物を皆いれる事ができる様になっており、それを肩から掛ける様になっている)を肩に郊外の田舎へ出かけた。すると学校帰りらしい三、四人の小学校の生徒が私等二人を見ていたが、その中の一人がWhere is monkey?と言って後を振り返った。

我々は何を言っているのかと不審に思って其の子等を見送った。

するとA君は突然吹き出して笑った。私は何が何だか判らなかった。漸くA君が「君、猿回しと間違えられたのではないか」と言った。成る程そうだナーと知って二人で大笑いをしたのであった。この猿回しというのは丁度私が今肩から下げているカメラ入れの箱位の物に猿を一匹乗せて箱のハンドルを回すとそれがオルガンになっていて音楽が始まる。すると猿は飛び下りて音楽につれ色々芸をする。日本のそれと大差ない。

子供等は其の猿回しだと思い猿がいないので、不審に思ったので「猿は何処に居るのだ」と言ったのである事が判った。遂に我々は猿回しになって終った訳である。誰も笑わずにはいられない。こんな事や要塞付近であるのを知らずカメラを覗いている内にオートバイで駆けつけた警備員に大目玉を頂戴したり立ち入り禁止の柵内に入って怒鳴られたりもした。

真夏戸棚の中で現像していて種板のゼラチンがとろけたり種々の失敗や経験を重ねた。

其の内に色々の研究会や機関誌の懸賞に応募して夫れぞれ入選した。ロンドンのサロンでも入選して斯界では少しは人に知られる様になった。

また夫れだけに種々勉強もした。無駄なネガを数百枚も作ったものだ。ゴム写真もオイルプリントも手掛けてみた。が真の写真の美しさは色々細工をしたものでは表現出来ないと、いう事に気が付いてからは専らレンズによる作画に専心した。帰国後アルバムを拡げてみると其の一枚一枚に当時の事が偲ばれる。

園芸の趣味、といっても広い範囲のものではない。朝顔の時期には、それを作り菊の頃になれば懸命に手入れをして花を楽しむ位のものである。が朝顔も菊も人に誇れる丈の自信はあった。其の他の花卉も人に負けない様花を咲かせる事が出来た。

 読書は元来好きだ。然し現代小説の様な物は青年時代に少しは読んだが中年になってからは歴史とか随筆とか徒然草とか源氏物語の様な昔の物を読む様になり特に太平記平家物語は好んで読んだ。漢字を習っていた頃は十八史略日本外史、文章規範等に興味を持ち勉強もした。

矢野恒太著「読方詳解ポケット論語」は旅行の時は何時も鞄に入っていたものだ。

今でも外に出た時等は電車の中でも何か読んでいないと物足りなくて何時も本を手離す事がなかった。

 

 

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第十六章 趣味(上)- 1

 私の趣味は普通一般の趣味と収集趣味と二つに分けられる。

普通一般の趣味としては和歌、謡曲、仕舞、写真、園芸(朝顔及び菊の栽培)読書、釣り等で、収集趣味としては世界交通乗車券、明治文化に関する錦絵(地震に関する物、図書並びに印刷物)肉筆木版刷絵葉書、折熨斗(広告入)等でその他一時的に収集したものに入場券、箸袋、絵封筒、駅弁の包み紙、汽車汽船の時間表及び沿線図等がある。

 和歌は父について十五、六才頃からニ、三首づつ詠んでいたが、よい歌は出来なかった。

明治三十八年八月頃一家が名古屋市東区富士塚町へ移転してから直ぐ隣に名古屋の家人大島為足先生の邸宅があった。それで先生の門に入って添削を乞い四、五年間勉強してからは少しは歌らしい歌が出来る様になったものゝその後東京へ移ったり米国へ出張したりして段々遠ざかり以来歌らしい歌は詠んだことがない。

 謡曲は明治三十九年頃東京店詰めの折、神田小川町の堀越君の宅へ下宿していた時、土居という人の所へ週に三日づつ習いに行ったのが始めである。

其の後横浜詰めとなってからは森村邸へ週に一晩づつ教えに来ていた服部喜之師(後の観世喜之)について約一年位稽古をして貰った。

又この間、東京電気会社の重役であった森祐作という殆んど玄人に近い人から仕舞と謡曲を習った。

この人についても相当永い間稽古をして貰った。私が大正十年の暮れに名古屋へ転勤してからは京都美術学校の先輩で油絵科出身の浅井氏につき自宅へ出稽古に来て貰い二ケ年位勉強した。

其の後先の森祐作氏が名古屋の東邦電灯へ転勤したので同好の士、十数名と共に又其の教えを受ける事となった。この人から九番習の仮許しを授けられた。

然し妻浜子が亡くなってからは一切それ等の稽古は勿論本を拡げてうなる事等止めて終った。

 写真は美術学校時代に興味を持った。祇園河原下の家にいた頃其の近くに名所の写真を作っていた写真屋があった。私は毎日の様に其の工場へ行き焼付け(其の頃はPOP紙の日光焼付け)等の手伝いをしながら其の知識を得た。

私自身が写真機を持って実際に写し始めたのはアメリカへ第一次出張の時大正二年三月始めの頃からである。

其の頃同僚の鞭島健之助という人がアメリカ式の美術的写真を得意としていた。其の人の奨めもあり又アメリカへ来て写真機の一つ位持っていなければ日曜日等散歩にも出られない。婦人等が公園等であちらでも、こちらでもパチパチとスナップしている。

勿論自分で現像焼付けをするのではなく至る所に之を扱う店があってカメラマンの便宜を計っていた。

この様に写真機と散歩、人と自然とは不可分のアメリカではどうしても写真機の一台位は持っていなければならない有様であったので安価ではあったがイーストマンのスリーAコダックを買った。其の後二回目の渡米の際グラフレックスのキャビネ形に買い替えてからは随分研究もし、レンズも種々使用してみた。其の中で一番面白い画像が得られたのはウォーレンサックのベリトというレンズであった。千九百十九年この会社で同レンズで写した写真の懸賞に応募して賞品を貰った事もある。又帰国してから東京写真研究会で同レンズ使用者としては認められ大会の度毎に賞状を貰った。

 

 

 

 

 

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第十五章 若竹寮 名古屋陸軍造兵廠専属宿舎(2)

又新築中の大きな家はこれ又強制的に軍で借り入れ寮にする等、或いは営業を目的に新築する者も多くなり十六年末には軍指定の寮は実に七十軒に及んだ。

之等の寮は造兵廠直属で青年工員寮と一般工員寮との二つに分かれている。他に造兵廠直営の技術養成所生徒宿舎、徴用工員宿舎の二つがある。

先の青年工員寮は大抵五十名以上を収容できて建物も寄宿舎式に建てられていて人員の監督に便利な様になっているが家が選定されており此処へ入る工員は統べて徴兵検査以前の者だけで造兵廠指名の正、副二名の寮長が寮生一切の監督をしている。

其の他に寮では寮の主人又は管理人がいて食事万端の世話をする様になっていた。

一般工員の寮は二十才以上の者を収容するもので、この方は一般家庭で二十五名位収容できる家か寄宿舎風の家でも認められていた。之れらにも又寮長、寮母がいる。

寮母は造兵廠に籍があり一般工員と同じ資格を持っている。そして給料は造兵廠から支給される。勿論収容人員により一寮内に二人、三人の寮母がいる所もある。

若竹寮は一般工員のそれで公認されたのは昭和十五年十二月一日で収容人員は五十名となっていた。

各寮は次の様な監督下にあった。

                         尾陽寮(御器所町)

                   ┌補導官  │東 寮(都  通)

             ┌郡長   │ 八木軍曹┤若竹寮(若竹町)

             │  水野属│     │東 寮(神田町)

千種製造所々長 総郡長  │郡付補導員│     │高辰寮(若竹町)

   居川中佐ーー金丸少尉┤ 米沢栄生┤     │覚王寮(覚王山通

             │     │     │***

             │     │補導官  │***

             └略    └ 伊藤雇員└***

 

若竹寮は公認の指定は他の寮より遅れていたが横沢少佐からは始めから模範寮として認められていた。その為同少佐が東京の造兵本廠へ転勤になる時記念の為寮生と共に記念撮影をされた事は寮としては光栄であった。

同少佐の寮に関する功績は大で今日の様に工員を容易に収容出来る事も又寮の風紀についても同少佐の計画は次々と進められ寮の統一、寮生の教育指導等に当たり親しみ深かった事は忘れる事が出来ない。

その後は庶務課長永久保諦一郎大佐が部下の田原中尉や松岡雇員を督励し熱心に寮の改善、収容その他諸配給の斡旋等、必需品では燃料等に至るまでの手当をして呉れた。

然し軍と民との関係は不可分の関係ではあるが或点では絶対軍の指導下にあり或点では全然無関心で軍としては何等の責任を追わない点もあった。寮費の点でもその経営でも寮主の自由で十五円の所もあれば十八円の所もあった。最近の物価上昇の際なので値上げの事を議題に寮主会で一定の額に決めたらどうか、との案も出たが決める事は出来なかった。

 それから暫くして次の誓約書に対し請書を出す事になった。

         誓約書

  今般貴廠工員宿舎トシテ御指定相成候二就イテハ左記条項ヲ遵守シ遺背致間敷候也

       左   記

  一、宿泊人員及宿泊料ニ付予メ貴廠ノ承認ヲ受クル事之ガ変更シ為サントスル時亦同ジ

  二、宿舎ノ諸施設ニ付キテハ貴廠ノ指示ニ遵フベキ事

    右誓約ス

  昭和十七年三月ニ十八日

                           住所  寮名  姓 名

 名古屋陸軍造兵廠庶務課長殿

 

         請   書

  今般貴廠工員宿舎トシテ御指定相成候ニ就テハ左記ノ通リ御請候也

  一、宿泊定員ヲ五十名以内トス 但シ場合ニヨリ定員ヲ超過スル事アルベシ

  ニ、宿泊料ハ朝、夕二食ヲ給シ一人一ケ月金十六円トス

    但シ中途退寮ノ場合ハ日割リ計算トシ又欠食二日(朝夕二食ヲ以テ一日トス)

    以上ニ及ブ時ハ一日ニ付キ金三十銭(朝食十銭、夕食ニ十銭)ノ割戻ヲナシ、

    尚休日ノ昼食ハ各人ノ希望ニヨリ之ヲ給シ、所要ノ代金ヲ其都度別ニ徴スル

    モノトス

  三、入浴ハ自家浴場、付近共同浴場ヲ利用シ入浴料ハ別ニ徴収セズ各自負担トス

                                     以上

  昭和十七年三月ニ十一日

 名古屋陸軍造兵廠庶務課長殿

 

当寮は昭和十五年二月より一枝を寮母として勤務させている。尚軍属の宣誓は昭和十六年九月一日であった。尚十七年四月一日からは入、退寮共に其の願いによって庶務係長の許可を得なければ寮主の一存で左右する事が出来なくなった。尚寮長として阿田原穂積を推薦し之に当て寮内の一切の事を責任をもって処理させる様にした。

この人は佐渡の人で未だニ十ニ才ではあったが一昨年頃迄は相当多くの人々に迷惑をかけ一時は退寮させる迄になったが其の後人が変わった様に真面目となり四月になってから特待工の待遇を受ける様になった。

現在昭和十七年五月末には三十三名の寮生を収容している。

 

 

 

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第十五章 若竹寮 名古屋陸軍造兵廠専属宿舎(1)

 支那事変は昭和十二年七月七日廬溝橋に端を発しその後益々戦場が拡大した。

戦場の拡大に伴い軍需工場の大拡張が行なわれ産業戦士も大動員された。

名古屋陸軍造兵廠でも青少年工員の大量募集で数千人を集めたが其の収容宿舎の用意が無く困っているとの事であった。

 私は山田安太郎氏の勧めにより或一日、日比野寛氏(マラソン王)と共に熱田造兵本廠の庶務課人事係長陸軍工兵大尉(昭和十六年〇月少佐に昇進)横沢松次郎氏を訪ね工員宿舎の提供を申し入れた所、非常に喜ばれ是非頼む尚諸設備を色々整えれば宿料も高くなるので現在の儘で良いから至急その用意をして呉れ、人員は夫れぞれ配置するが工廠の名前は使わない様との事であった。その日丁度千種の工場から庶務の水野万右衛門雇員が来ているから万事その人に依頼して置くと水野雇員に紹介された。そして昼食を御馳走になって帰った。

 之れより先貿易の方も渋谷氏へ実権が移っているので今まで工場としていた自宅の隣の建物と、裏にある今迄下宿屋を営なんでいた二階建の広い建物を利用して渋谷要吉の名義で私が管理人という事で下宿業の認可を申請しておいた。それが認可され九月一日から営業を始める事となったので町名に因み「若竹寮」と名付けた。

 イの一番、然も八月三十一日午後四時頃父義雄氏に連れられて三重県員弁郡大長村の人で川瀬金徳(十八才)という人が水野雇員の紹介で来た。この人は昭和十四年十二月十日入営の時迄止宿していたが其の後、同君の父の話によれば入営後戦地で発病、内地の病院で十六年五月頃亡くなったとの事である。

翌九月一日には愛知県知多郡野間の森岡政一、二日には三重県多気郡五ヶ谷村の村上栄一等と一人増え二人増えして九月末日には二十余名の人が同じ釜の飯を食べる様になり段々賑やかになってきた。其の後間も無く定員五十名が充足した。

 当時の寮費は一ヵ月二食付きで金十二円三食付きで金十五円という安い価格であった。

其の頃工員宿舎としては千種管内に数軒しか無かったが毎月、千人位の人が新潟、長野、富山、岐阜、三重、静岡の各県から募集に応じて、この工廠へ又は他の軍需工場へも出てくるので宿舎難となり遂に国防婦人会へも呼び掛けて間借しを奨励する等一時は空いている所へは強制的に宿泊させるという状態であった。

 

 

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