明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第一章 小梅村腕白時代(1)

明治13211日 紀元節建国記念日)の佳き日東京市浅草区象潟町台東区浅草)で曽我徳丸の長男として呱々の声を上げた。

それでその祝日を記念する意味で年雄と命名されたとの事である。幼い頃軽い脳膜炎に罹ったそうだが何等の異常も無く今日に至った。

 其の頃父は河原徳立氏経営の瓢池園と並川惣助氏の所で陶画を描き、生活にも相当余裕があり、家屋敷も持っていたとの事である。

けれどもその後明治156年頃、陶画を描く事を止めて府下葛飾郡中之郷村曳舟通りの小梅の里へ移住し、専ら陶画を画くのを止め絵画の研鑚に専念する様になってからは、定まった収入も無く一家の生活は窮乏を告げる様になった。

殊に明治20頃は其の極に達し、畳は破れ壁は落ち衣食は儘ならず、欠食に欠食を重ね、たまに芋粥に舌鼓を打つ日は父に幾何かの収入があった時であった。

 

母(鈴子)は日夜身を粉にして働いて父を助けていたが、苦しい中にも子供等の教育には熱心で、私を本所林町(現在墨田区菊川一丁目)の中和小学校(註1)弟鉄良は近くの牛島小学校(現在墨田区向島三丁目当時須崎町昭和21331日廃校)へ通学させてくれた。

三男、三郎はまだ頑是ない子供なので家で世話を焼かせていた。

 

1 本所に於ける公立小学校(教員児童数は明治375月其の他は同382月調)

 

中和小学校

林町3

明治7年設立

敷地891

校舎364

教室243

(現在墨田区菊川1-18-10

 

尋常科

級数8

教員数10

児童数 男132 女138

 

高等科

級数8

教員数10

児童数 男281 女248

 

初代校長 

入江増忍

明治888日〜同16123

 

二代校長

近藤孝造

明治1719日〜同18729

 

四代校長

同上

明治261227日〜大正10411

 

中和小学校の沿革

「中庸」の「喜怒哀楽之末発謂之中。発而皆中節之和」による。

明治34月 後の六大区権区長岡田安賢の戸長関岡孝治等が五小区有志を募り毎月分納寄付金により本所林町1丁目12番地の徳上院当時弥勒寺(みろくじ)の塔頭(たっちゅう)を借りて育幼社を創設、無月謝で読、書、算等の教科を教えた。同年6月生徒、増加の為明治5年学制が発布されると戸長関岡は区内有志と諜り同72月本所林町3丁目40番池に校舎を新築し長慶寺にあった育幼社を移転し仮に第六中学区第一番公立土屋学校の分校として小学教則に従い子弟を教育する。

888日独立し第六中学区第13番公立中和学校と改称する。

同年922日開校式を行う。

大正12 91日焼失、昭和3427日復興本建築校舎落成。

昭和20年空襲、一教室類焼のみで難を免れる。

 

牛島小学校

須崎町 

明治6創立

敷地681

校舎334

教室198

 

尋常科

級数8

教員数8

児童数 男114 女96

 

高等科

級数5

教員数10

児童数 男210 女214

(現在 墨田区向島三丁目37番地 昭和21331日 廃校)

 

 

 

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