明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第二章 京都伏見時代(2)

父は京都陶器会社へ図案部長として招聘され既に勤務していたので間も無く付近の一軒の家を借り、そこへ移った。伏見稲荷神社の直ぐ傍であった。

私は学校へ通わなければならないので伏見桃山の麓にある板橋尋常高等小学校高等科一学年へ転入した。こゝで当時の付近の様子を思い出してみよう。

伏見のお稲荷さんは半丁(約五〇米)程の所に在る。朱塗りの大鳥居を潜り一丁(約

百米)位石畳みの道を行くと又朱塗りの右大臣、左大臣が構える楼門がある。

本殿はその門の直ぐ奥の森を後に矢張り朱塗りの千木造りで、参詣人の柏手や鈴の音は途絶える事が無かった。

「御山」と言うのは本殿の傍らから、山へ登って山廻りをすることで、人々は少しづつの洗米と五寸位(十五糎位)の竹串に細長い白い紙をつけた幟に丑年の女とか自分の干支を書いた物を道々傍らの凹んだ穴の様な所の周囲へ一本宛立てゝゆくか又は小さな一尺(約三〇糎)位の鳥居を立てゝいく人もいる。お稲荷さんのお使いは狐だと言われ、何時も穴に住んでいるという所から、これが信仰や迷信になり、穴なら狐がいると思うものか峯から谷へ、谷から峯へと道の左右はそれ等の物で雪の様に真白だ。

又その道の五、六丁目毎に(五ー六〇〇米)ある末社には、鳥居が重なりあって、まるで炭鉱の坑道を行く様だ。

山を回って約一里半(約六粁)で奥の院へ着く。それ程険わしくはないが、此処迄登ればその日のお参りは、満願で帰りは裏道伝いで山を降りるのだ。

伏見の稲荷といえば伏見人形を思い出す。それ程この人形は有名だ。

神社の前の伏見街道の両側は軒を連ねて、この人形を売っている。布袋、荷馬、狐等が多く中でも幸右衛門の作と言えば之等の元祖で愛好家には人気がある。

伏見街道を稲荷から南へ数丁行った所に「雀のお宿」という家が在った。

父の記した日記の一節に

明治三十年十月十一日        日曜日

天気いとよろし中島広氏と桃山に行きたり。朝まだきに、いさゝかなる瓢に酒をとゝのい、さかな等添え心にまかせいそぐともなく、ゆるゆる歩き道すがら車をすゝめし人あれど、のりもえで、かのもこのも打ちながめ、とりとりの噺聞きつ語りつ伏見の大路にかゝりぬ。

伏見の街道中程に畳屋あり、むかしよりこの家に雀数百羽馴れいて巣をかけ孫、彦の末々、雀の宿りとなり、いとよく馴れ、家居の内は我がものようにぞくらしける。この家何時の頃よりか、雀の巣をくひそめしらんを知らず。くわしくは聞き得ぬなから人の知らぬはなし。

道すがらの事故に中島をして問はするに、道の左の方なりとおしゆるより、おしえし方に行き見るに、音にも聞こゆる雀のお宿とはむべなりけり。早や家のはひりに来にければ、かの雀の声にて千代々々とさひづる事のかしましくぞ、聞こゆる。あなひをとり内にいりて見れば瓢のあまた或は釣り籠、或は箱よふの物いくつとなく掛けありて、雀の巣をくひいしにそ珍らしかりける。

 

   このゝちの昔かたりの種にとて

        雀の宿にたずねきにけり

                      (下略)

 

 

 

※本ブログ記事には、現代社会においては不適切な表現や語句を含む場合があります。当時の時代背景を考慮し、文中の表現はそのままにしてあります事をご了承ください。

 

※本ブログの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。まとめサイト等への引用も厳禁致します。