明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第二章 京都伏見時代(3)

そこで腕白小僧も東京から京都へ来て、板橋の学校へ神妙に通学していた。

処が丁度付近に住んでいた稲荷の神官の息子で一級上の道楽者?私より以上に腕白で怠け者が、登校する時の良い道連れであった。毎朝誘って呉れるので始めは誠に良い友達で親切な人だと喜んでいた。処が一ヶ月すぎ二ヶ月たち、だんだんお互いに気心が判って来ると、朱に交われば、赤くなってきた腕白小僧は学校へ行って勉強するより遊ぶ方が面白くなってきて、つい誘われる儘に一日休み、又次の日も、今日は桃山へ城跡を見に行くとか、先陣争いをした宇治橋の古戦場や平等院へ行くとか、勝手な理由をつけては来る日も来る日も、朝は決まった時間に弁当を鞄に入れて如何にも学校へ行く様な顔をしては遊び回り終いには月謝も菓子に変わり、ラムネに化けて消えて終った。

そんな日が幾日も、幾日も続き果ては一ヶ月となり二ヶ月となつた。学校は欠席、一日も登校しないので学校から家庭に注意があって、初めて両親はこの事を知った様な始末。

その結果は三月の進級試験に影響し、まんまと「落」の一字を頂戴する様な羽目になった。

その頃父は東福寺山内の正覚院という空き寺へ居を移していたのと、同寺内の九条家の菩提所芬陀院の住職とは画道に依って親しくして居られた関係で私は遂に、この寺へ小僧として行く事になって終った。腕白小僧は味噌摺り小僧という名に変り頭を丸めて小さな僧侶の姿となった。名を文雄(ぶんゆう)と付けられ此処で約一ヶ年半は辛抱していた。けれども元来腕白に育った私は相変わらず腕白を発揮して、御経はおろか仏壇の燈明一つ灯もすでも無く藪の中へ入っては竹を折り門前の掃除を命じられても箒はそっちのけで付近の森の木に登って鳥の巣を取ったり木の実を落としたりしては一人で喜んでいた。

それでも和尚が絵を描いたりする時は傍らに居て墨を摺り絵の具をとかして手助けをする事丈は家にいて母のする事を見様、見真似で少しも面倒とは思わなかった。寺の雑用や、お経を習うより、こんな事計りさせて呉れたら良いなあ、と思っていた。

其の内に父と、どの様な話になったのか家へ帰る事となった。きっと追い出されたのだ。寺で断られたのだ。

父はこの頃陶器会社を辞めて、森村組京都出張所の図案部を担当して其所に勤務する事に、なり私も寺から帰って遊んで許り居られないので、こで初めて絵画の手ほどきを受ける事になり四君子から習い始める事となった。そして時々父の勤務先の森村組へ(上京区麸屋町六角下る)手伝いに行く様になった。これが私の絵画を始めた最初だ。

明治ニ十七年八月父の通勤の関係で下京区下河原通り八坂神社鳥居前清井町に移転する事となった。そして私は高橋道八氏の紹介で明治ニ十八年十月十ニ日、京都市立美術工芸学校予備科に入学再び学校生活をする事になった。

 

 

 

※本ブログ記事には、現代社会においては不適切な表現や語句を含む場合があります。当時の時代背景を考慮し、文中の表現はそのままにしてあります事をご了承ください。

 

※本ブログの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。まとめサイト等への引用も厳禁致します。