明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第三章 美術工芸学校時代(1)

 予備科では翌々年の三月迄、横山大観先生の指導を受け、絵画本科へ進学してからは鈴木瑞彦先生に教えを受ける事となった。当時考古学、美術史は校長今泉雄作氏が担当して居られた外、富岡鉄斎、竹内棲鳳(栖鳳)菊池芳文、山元春挙等の諸先生が居られ京都画壇の錚々たる大家が揃っていた。図案科では谷口香愫先生が一学年から五学年迄を担当して居られた。又彫刻科には大村西厓先生が居られ卒業生の先輩、国安稲香君が助手を務めていた。

生徒は各科にニ、三十名位で合計ニ百名余り。服装は制服と好きして安部仲麿の様な古代の官制にあった闕腋(けってき)というもので帽子は今の裁判官が使用している物と略同じである。それに緑色の絹の組紐を数本、丁度軍人の飾緒(しょくちょ又はしょくしょ)の様な物に銀で美の字をメダルにしたものを付けていた。教員は其の飾緒が紫色だったと記憶している。

(註)闕腋 ー 武官束帯の上衣で袖から下両脇を縫わないで開け、動き易くしてある。

   飾緒 ー 武官正装の時右肩から胸に垂らして飾った紐、俗に参謀懸章とも言い金色、銀色を使用した。

服の色は黒であった。然し此の制服を持っていた生徒は少なかった。大部分は黒の紋付羽織袴であった。唯規定では前記の飾緒を徽章として、つける事になってはいたが、仲々守られていなかった。何といっても他の学校と違い芸術専門の特殊校なので登校時間も帰る時間も不規則で殆ど自由だった。私は日々の教科に興味が湧いて今迄の心境が一変して毎日一生懸命、写生に、臨画に、運筆にと勉強し始めた。

 一般の校則も無く研究にも束縛は無いので生徒は自分の好きな方向へ進んで行く事が出来る。自分の考えに合わなければ、例え栖鳳先生の指導を受けても、その画風に添う必要も無く唯自分の信ずる儘に進めば良いのである。学校の過程は只その運用と、進路の指導のみである。であるから怠けて居ればそれ迄だ。

他の学問の様に記憶とか一時的の勉強では試験に合格しない。専攻した着想と技術の結果の現われである。私は父が小梅村時代衣食も家を顧みず唯々研究努力のみであった事を心に焼き付けられているので、その心を心として勉強した。

 明治三十年四月予備科を終業して本科一学年へ進級しその年の六月、腕白小僧は模範生の一人に加えられ特待生に選ばれた。授業料は免除されその上、毎月顔料筆墨さえ支給された。

その時の特待生には豊島禎吉(停雲)今井高弌(斯文)栗林盛衛(大然)の諸君がいた。本科一学年では、初め鈴木瑞彦先生だったが亡くなられたので、三宅呉曉先生に代りそれから三年間担当であった。

 

 

 

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