明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第三章 美術工芸学校時代(3)

北条静という人の所へ停雲に誘われてバイオリンを習いに通ったが半年許りでやめた。彼はその後一人で通っていた様だ。

学校では月に二、三回郊外写生の課目があるので、その日は思う儘、山野を跋渉し一日を郊外で過ごした。その服装といえば黒紋付の羽織袴で草履を履き写生帖を懐に矢立を腰に挟み竹の皮包みの弁当を持ち朝は早く宿を出て夜は星を戴いて疲れた足を引きづって帰ったものだ。

豊島停雲、島田海南、川畑春翠とは何時も一諸だった。この郊外写生はまる一日の行程で京都付近は隅から隅迄殆ど行かない所は無い程だった。

遠くは比叡山を越え近江の坂本に下り琵琶湖を廻っては八景を尋ね三井寺の晩鐘を聞き乍ら帰りを急ぐ事も、宇治や伏見に出かけては桃山の城跡を探し、宇治川の古戦場平等院に、源三位頼政最後の地、扇の芝の史跡に立って懐古に浸り、近くは蔵馬貴船に深山を写生したり、清滝川を朔って、愛宕山麓では清流を写した。又八瀬や大原では大原女の優美な姿を写生帖に、嵯峨や御室では春の池に酔い高尾、栂尾では紅葉を焼いて秋の淋しさを感じ、深山幽谷で鳥の啼き声を聴いては画題として構想を練り、これらを悉く一冊の写生帳に収めた。

時には名月を鑑賞し巨椋池に舟を浮かべ或年は比叡の四明獄頂上で詩を吟じ歌を詠じて夜の更けるのを忘れ夜明けに帰った事もあったが、この様な事は特殊学校でなければ出来ない生活であった。

 元来本科は五年制であったが明治三十三年四月に四年制に改正された。更に研究機関として実科専攻科が新設された。この制度は二年終了で本科四年卒業者は、その儘二年へ進学でき一年間の出席日数三分の一以上登校さえすれば、この科は終了し卒業出来る事になっていた。

私は丁度この制度ができた時だったので本科を四年で卒業し直ちに専攻科一学年へ進学した。そして尚特待生の資格は継続されていた。

専攻科一年、二年共に竹内栖鳳先生が担当し学校の教室とはいうもの丶先生も生徒も勝手な時に出て来て勝手に帰る自由な研究室であった。制作も思い思いであったが、それでも一年に何枚かの数は定められていて、それが成績となっていた。

 毎年十一月には校友大会が催され各生徒の制作や卒業生等の作品が展示され一般の人も鑑賞する事ができた。

この校友会展覧会で明治三十三年度三等賞銅牌、三十四年度二等賞銀牌を受けた。

其の時の作品は幅三尺竪六尺の絹本に静御前の舞い姿を描いた物だったが売約済みとなった。(明治三十五年四月二十日「美術及び美術工芸」第二号 山田芸艸堂発行 所載)

 明治三十四年十二月一日私は一年志願兵として名古屋第三師団夜戦砲兵第三聯隊へ専攻科二学年在籍の儘入営する事となった。翌三十五年十二月復校して三十六年四月一日、七年半の学校生活を終りこ丶で一人の美術家の雛が生まれた。

専攻科は前述の通り研究科なので学費、生活費は自分で得なければならなかったので、一ヶ月の三分の二は登校しなくても良いという校規を活かして仕事をした。

その頃荒神橋の西詰に森川曽文の門弟で西村耕文という人がいた。その人が貿易商館の依頼で数人を集めてビロードに絵を描いていた。私も画友の大谷曽城という人の紹介で、そこへ通い、勿論学費は専攻科に入ってからは親からは送って貰っていなかった。

 

 

 

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