明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第四章 京都下宿時代(1)

明治三十一年三月父が名古屋へ転勤してから下宿生活となり最初京都の中央、活花の家元池の坊で名高い六角堂の門前鐘楼の傍らに父の知人の煎り豆専門の店があった。一先ず其の家へ下宿し其所から寺町丸太町の学校へ通学していた。が道も遠く何かと不便なので半年ばかりで川畑春翠君の二階へ移り其所も一年程で同家の都合で引き払い仲町竹屋町下る井上という下宿へ落ち着いた事は先に延べた。

この家も明治三十五年頃京都御所、梨木神社前の田能村直入画伯邸の隣に広い家が空いていたので其所へ転宅し下宿屋を続けたので私も又そこへ移って世話になった。

この下宿の親父は井上捨次郎といって当時四十五、六才の男盛りで女将の名は「てい」といって親父よりは二、三才年上であった。

親父は小柄で身の引きしまった背の低い人で身体に倶利伽羅紋々の刺青をしていた。

(註)倶利伽羅紋々(くりからもんもん)背中に倶利伽羅龍王の模様の刺青をした人

以前その道で顔役でも、していたのかとも思われる風態であった。東京生まれで聞く所によれば女将とい丶仲になって京都へ走って来たとの事だが詳しい事は話もしなかったが聞きも、しなかった。女将は親父と異り五尺二、三寸(一五〇~一六〇糎)あろうかというデブで何時も鉄漿(おはぐろー歯を黒く染める事、江戸時代結婚した婦人は全てこれを行った)を付けていた。美人とは、言い難いが丸顔で鼻は高からず少し天井を向いていたが色は白くサッパリした江戸っ子丸出しの伝法肌(いなせな態度、特に女子が勇み肌真似る事)の女であった。

二人とも気の良い親切な親分気質の人だった。

 それで下宿人も安心して泊まっている事が出来て殆んど一年以上永く居る人許りで私も前後を通じて五年位厄介になった。

親父は毎晩少しづつ酒を飲んだ。この種の人達は一つの誇りとして立派な長火鉢を使っていた。そして銅壺(どうこ)には何時も湯がシャンシャンと音をたて丶いる。その側でチビチビと晩酌をやるのだ。時には喧嘩が始まる。親父は直ぐ段平(だんびらー刀)を抜いて威しつける。女将は又始まったと許り私の部屋へ逃げて来て仲裁を頼むのが常だった。始めの内は驚いてとんだ宿へ来てしまった。万一の事があったら大変だと恐ろしかったがこれが常習と判って、からは安心したとは言えあまり気持ちのよい事ではなかった。兎にかく女将を部屋に残し親父の所へ行って適当に謝ってやる。親父も私の言う事は快く聞いて呉れた。

然しその後で「まあ一杯やりましょう」と言って盃を差し出す。元来私は酒は好きではないが如何にも有難そうに、受けてやる。その内に機嫌がなおり「てい、お代わりを持ってこい」と言い出したら〆たもので、この機会を利用して引き下がる。二本位飲むと、その場で高鼾で、たわいもなく眠って終う。

こんな事があった翌日は必ず私の机の上に菓子包みが置いてあった。

 

 

 

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