第五章 兵役時代(1)
昨日の美術家も今日は三分刈りの丸頭で衛兵の立っている第三師団野戦砲兵第三聨隊の営門を潜ったのは明治三十四年十二月一日の午前七時頃だった。
六名の一年志願兵は第六中隊付となって教育を受ける事となった。
兎に角画筆より他に重い物を持った事の無い私は、暫くの間は一通りや二通りの苦痛では無かった。殊に乗馬隊を志願した私は馬という余分の物にも一苦労しなければならなかった。
初めの二ヶ月、三ヶ月は乗馬の訓練で尻の皮は張れ上がり、両股から膝までの所謂騎座という辺りは赤ムクとなって血がズボンの上まで染みていた。
一ヶ月の落馬回数が五十余回という素晴らしいレコードの保持者だけに大抵の教官は呆れていた。それ丈に馬についての練習と経験が多く出来た訳だ。
教官に岡本虎彦という少尉がいた。短気で我儘で上官など屁とも思っていなかった。時には気でも狂ったかと思われる様な訓練をやる。が人情味の有る部下思いの人であった。日曜日には自宅へ遊びに来いと言っては御馳走をして呉れた。北練兵場の東の土居下という所に両親と住んでいた。
六月に上等兵になってからは学科が始まり野外演習では一、二泊の予定で県下の山野へ出かけた。こうなると中々面白くなり平時は戦争の真似ばかりして空砲も撃たない演習が果して実戦の役に立つのだろうか等と考えたりした。東海道の松並木を通る時等は馬上でコクリコクリと良い気持ちになり砲車の後から砂ほこりを浴びて馬につれられて行軍したものだ。
一年志願兵は一般の徴募兵の様に雑役には殆ど廻され無かった。唯一通りの経路を経る丈だったのでこの点では楽であった。
然し学科と教練は猛烈で特別の練習時間があり時には日曜日でも午前中は外出も出来ない事もあった。下士官になってからは将校集会所で聨隊長や営内の将校等と食事を共にする様になった。私が他の志願兵と違い美術学校出身というのが評判で時々種々の用事があった。
其の頃になると私たちと一緒に入った兵隊から敬礼を受けるようになった。下士官になれば営内の生活も兵隊に対する態度も非常に変ってくる。
一ヶ年は馬術と砲術と学科等で猛烈な訓練を受けた私も、終末試験の頃には立派な下士官として及第證書を手にし軍曹に進級し予備役に編入されて十一月の末帰宅した。
それから再び京都に帰り、残りの専攻科二学年を修学し翌三十六年四月には同科を修了して学校生活を終え名古屋へ帰った。
同三十六年八月三十一日勤務演習の為、原隊へ入隊し予備役見習士官を命ぜられ軍曹の服装に将校用の指揮刀を帯び金星の襟章を着け三ヶ月先の将校を夢見て意気揚々としていた。所が最後の試験にマンマと落第「陸軍曹長に任ず」という一枚の辞令を懐にスゴスゴと営門を出た。衛兵が後ろから「ザマー見やがれ」と笑っている様な気がして自分で自分が情けなくなってきた。
翌三十七年二月十日 我国より露国に向って宣戦の詔勅が発せられた。
天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆二示ス
朕茲二露国二対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海軍ハ宜ク全力ヲ極メテ露国ト交戦ノ事二従フ
ヘク朕カ百僚有司ハ宜ク各々其ノ職務二率ヒ其ノ権能二応シテ国家ノ目的ヲ達スル
二努力スへシ
中略
帝国ノ重キヲ韓国ノ保全二置クヤ一日ノ故二非ス是レ両国累世ノ関係二因ルノミナ
ラス韓国ノ存亡ハ実二帝国安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ露国ハ其ノ清国トノ盟約
及列国二対スル累次ノ宣言二拘ハラス依然満州二占拠シ益々其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ
遂二之ヲ併呑セムトス若シ満州ニシテ露国ノ領有二帰セン乎韓国ノ保全ハ支持スル
二由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムへカラス故二朕ハ此ノ機二際シ切二妥協二由テ時
局ヲ解決シ以テ平和ヲ恒久二維持セムコトヲ期シ有司ヲシテ露国二提議シ半歳ノ久
シキ二互リテ屢次折衝ヲ重ネシメタルモ露国ハ一モ交譲ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス曠
日彌久徒二時局ノ解決ヲ遷延セシメ陽二平和ヲ唱道シ陰二海陸ノ軍備ヲ増大シ以テ
我ヲ屈従セシメントス凡ソ露国カ初ヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ豪モ認ムル
ニ由ナシ露国ハ既二帝国ノ提議ヲ容レス韓国ノ安全ハ方二危急二瀕シ帝国ノ国利ハ
将二侵迫セラレムトス事既二茲二至ル帝国カ平和ノ交渉二依リ求メムトシタル将来
ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間二求ムルノ外ナシ朕ハ汝有衆ノ忠実勇武ナルニ倚頼(い
らい)シ速二平和ヲ永遠二克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス
御名御璽
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