明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第五章 兵役時代(2)

 動員令は三月六日第三師団に下った。私も軍籍にあるので絵筆を捨てゝ第一線にたつ秋が来た。三月八日充員招集に応じ第三聯隊野戦砲兵補充中隊に入隊した。

第三師団は第一、第四師団と共に、第二軍に編成された。

四月十三日午前十一時七分愈々動員令が我々に下った。その時の光景は私の陣中日誌に次の様に記されている。

     四月十三日       晴

 本日午前十一時七分 動員令に我が野戦砲兵第三聯隊補充中隊の我等一同は上を下への大騒ぎという程でもないが数日前から待ちに待っていた事なので、ソラ来たと緊張した。髯の相沢中隊長の「将校集まれ」の発令で集まっている所へ、師団から赤色の封筒が届られた。

書記が受け取る。これで動員令は確かに受付けられたのだ。

十一時頃中隊長は中隊の下士官以上を中隊事務室に集め補充大隊の編成を発令した。即ち野戦砲兵第三聯隊補充中隊は野戦砲兵第三聯隊補充大隊第一、第二中隊と分割された。編成は次の通り。

   大隊長代理         陸軍砲兵大尉     相沢陣吉郎

   第一中隊長          同  中尉     田島政次

                  同  少尉     附柴知三郎

                  同  少尉     新納軍平

                  同  少尉     村瀬治郎

                     曹長     曽我年雄

                     軍曹     横井実三郎 他六名

                     伍長     長谷川熊造 他八名

                    上等兵     二十四名

                  一、二等卒     五十七名

                    初年兵     百〇五名

                    輸 卒     二十三名

                  第一補充兵     十 七名

                     乗馬     十 二頭

                     輓馬     四十九頭

                     駄馬     十 一頭

   第二中隊の編成は略す。

     四月十九日        火曜日     雨

     前略

 今日も又朝食後明日の下士卒の俸給の計算をして主計に差し出す為に机に向かって算盤をはじく。計算半ばに大隊からは一中隊の人員の総数を知らせよ、とか食需伝票に捺印せよ、とか需用伝票で消耗品を請求して呉れ、馬料伝票がどぅだとか、充足馬過不足表を作れ、とか誰れそれが面会にきたとか兎に角、曹長殿、曹長殿と身体がいくら有っても足らない程である。

  以下略

 こんな日が何日も続いて漸く、二十日午後六時にこの動員令は完結した。

その翌日次の様な葉書が手許に届いた。

  愈々二十一日〇〇港を発し〇〇港に向かって出帆す、詳しくは後便を以て申し延候

   四月二十日

           広島市字小町一一九番屋敷  河原生之進方  鉄良拝

 これは弟鉄良が騎兵上等兵で現役の儘第三師団の動員で既に根営を出発して広島に行っていた事だった。私も軅て出発だろう。又会う日迄のお互いの無事を祈った。

六月十八日再び予備役見習士官を命ぜられた私は村瀬少尉の補助官として新輸卒の教育に当った。八月頃から初年兵係の教官となり九月十一日から三日間の見習士官六人の将校試験では今回は見事パスして十月十六日晴れて陸軍砲兵少尉となり自宅から通勤する事が許された。

朝夕の送り迎えにも馬卒が馬を曳いて来る。衛門の出入りには衛兵の起立の礼を受け万事昨日迄の見習士官とは待遇が違って来た。自分の心構えも何となく軍人らしい気持ちになってきた。生を受けて二十五年、種々の困難を通り抜け今日この地位を得た事は感慨無量である。父母に深く感謝しなければならない。

 十一月九日 午前十一時頃、第三十二動員が発令され私は後備隊付を命ぜられた。詳しく言えば第三師団後備野戦砲兵第三中隊付で、これで待ちに待った戦闘部隊に編入されたのだ。

我々も衛舎を出て町家へ泊まらなければならない。それで翌日から直ちに動員第一日に入り、宿舎割りの為、本町通りの家々に就いて宿泊可能人員を調べ第四日から応召で入ってくる者を宿泊させる準備を急いだ。応召兵の中には慶応二年生まれの人もいて父が息子と同じ部隊に配属され息子はその父を教育しなければならない羽目に会い、戸惑う場面もあった様である。

中隊本部は本町四丁目の愛知物産組に設けられ一丁目から五丁目までの人々が五人づつ一日、三交替で事務所に詰めて種々の世話をしていた。炊事場は呉服町五丁目の久松龍吉方へ作られ、そこから食事は運ばれた。戦闘部隊の動員は補充部隊のそれとは、全く較べものにならない。万事が活気に満ちて皆戦争気分で働いて居る。

 徴発馬の訓練、新馬の調教等は砲兵隊にとって最っとも重要な事なので全力を注がなければならない。平時と違い動員令下では何日何時でも戦地へ出発しなければならない。軍隊用の馬は人が乗り唯走り唯、物を運ぶ丈では役に立たない。即ち軍用馬は砲兵の武器の一つなのだ。然し短期間で軍用馬に仕立てなければならない。それで我々は毎日午前、午後調教に追われ休む暇も無い有り様だった。

 十二月五、六日頃門田宮一郎大尉が我々の中隊長として着任した。大阪生まれの人で台北の砲兵隊で副官をしていた人だ。

 十二月十三日の官報(第六四三六号)に「叙正八位 曽我年雄 明治二十七年十一月二十九日付」とあった。

 翌年一月二十日編成改正により後備独立野戦砲兵第二大隊付となり愈々出発も間近に迫った。

 

 

 

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