第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(3)
三月二日(木曜日)この日私は中隊段列の指揮官として後方陣地にいたので、直接戦闘に参加しなかったが長灘に本隊を置いていた敵も昨日、月泡子と年魚泡の戦闘に敗れ長灘を捨てゝ退却を始めた。我中隊は終日之を長灘の北方へ追撃した。本隊の第一、第二中隊は其の北方畑地に砲列を敷き砲撃を加えた。又第五師団は右翼から側面に曳光弾の弾幕を張る様に砲撃を加えた。この為頑強に抵抗していた敵も混乱したのか多くの死体を残して北方へ退却していった。
然し我軍の攻撃は尚も続けられ、三日には渾河左岸、頭台子付近に進出し四日には大楡樹堡の東北方旧鉄道線路付近を占領し、工兵隊の援助によって強固な陣地を構築し楊子屯、甘官屯及び魚鱗堡の敵歩兵、並びに沙坨子北方から甘官屯の線に至る砲兵に対して作戦が進められた。敵の兵力は砲二百門以上という優勢で、この線が敵の主力防禦線でこれが破られゝば総崩れになるので頑強に抵抗を続けていた。特に楊子屯の敵歩兵は最も勇敢で屢々我軍を苦戦に陥らせ、退却どころか逆襲して我軍を悩ませた。
そこで、この鉄道線路を挟んで第五、第八師団山砲各一個連隊は戦利野砲一個中隊、重砲一個大隊及び九糎臼砲一個中隊並びに我独立野戦砲兵一個大隊で応戦した。彼我の砲声は殷々と天地を揺るがせ砲煙空を覆いて日為に暗いという、凄絶極まりない光景であった。
その為負傷者も続出し器材も又多大の損害を受けた。この日の戦闘は日没迄止まなかった。
三月六日 (月曜日) 晴れ
午前三時 砲廠を出発して前日同様陣地につき払暁から楊子屯の敵歩兵に向け砲撃を開始した。尚甘官屯の敵砲兵に砲撃を集中して敵砲兵に多大な損害を与えたにも拘わらず、敵は益々増援部隊をこの線に送り込みその勢力は侮る事の出来ない状況であった。
加えて午後三時頃から、敵は右翼沙坨子方面に迂回して我砲列を側面から攻撃してきた。同時に他の方面の砲兵もこれに応じて猛烈な砲撃をしてきたので我方は敵の十字砲火の中に陥り身動きも出来ない状態となった。その上敵の照準は正確で榴霰弾は上空に弾幕を張り地上では巨砲の弾丸が炸裂し我方に応射の暇さえ与えない様な状況で第二中隊等は、一時砲撃を中止し射蔽物を利用し退避したという有様で、従って我軍の被害も又ひどく比留間大隊長初め安藤副官及び第二中隊の小隊長二名も負傷し我中隊では重、軽症者軍曹以下六名を出し馬二頭即死負傷一頭という有様だった。
此の日我歩兵は決死隊を組織し総指揮官〇〇聯隊長津川兼光大佐を先頭に楊子屯に向い、又総指揮官小山岩太郎大尉の率いる部隊も甘官屯に大夜襲を決行したが何れも成功せず反って多くの死傷者を出したと伝えられた。この時の突撃ラッパの響きは遠い我陣営にも聞こえた。
又左翼の第三軍に属する第三師団の歩兵も彼の有名な三軒家を奪取しようと(李官堡の東方干洪屯の南方に有る無名部落、仮に三軒家と言っていた)夜襲を決行したが第六聯隊及び第三十三聯隊の将兵千六百余名は恨みをのんで此の地に散った。それはこの戦闘での出来事であった。私は戦後の或る日この部落に勇士の霊を弔うべく馬を駆らせた。見渡す限り刈残った高粱畑の殺伐たる晩秋の風景は未だ血腥く、今尚枕を並べて横たわる将兵の骸に其の冥福を祈る私も此の悲惨な光景には目を覆わせた。
※本ブログ記事には、現代社会においては不適切な表現や語句を含む場合があります。当時の時代背景を考慮し、文中の表現はそのままにしてあります事をご了承ください。
※本ブログの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。まとめサイト等への引用も厳禁致します。