明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(7)

 時に四日月は淡く西天に懸り星数は少なく静寂が辺りを包み犬の遠吠えが何となく無気味だ。今や我部隊は敵中に居るのだ。零時三十分支隊長より次の命令を受けた。

 一、昨朝三十里堡二於テ敵ノ乗馬歩兵約五十騎、我将校斥候ト衝突シ北方二退却セ

  リ、第五師団ハ今払暁歩兵一大隊半、騎兵二聯隊、山砲一中隊ヨリナル偵察隊ノ主

  力ヲ以テ四面城付近ノ敵ヲ撃壌シ白塔河右岸二進出シテ鴜鷺樹及ビ太平岺方面ノ敵

  状ヲ偵察ス、第六師団ヨリ鉄道線路二沿フテ一支隊ヲ出ス筈

 二、支隊ハ白塔河ノ線二前進シ鴜鷺樹及ビ雙廟子方面ノ敵状ヲ偵察シ兼ネテ白塔河及

  ビ其ノ左岸地区二於ケル地形ノ偵察ヲナサントス。

 三、第八中隊及ビ騎兵半小隊ハ前衛トナリ午前一時 河家信子ヲ出発シ露国軍道ヲ白

  塔河ノ線二向イ前進スベシ、本隊トノ距離ハ約四百米トス。

 四、第五中隊(一小隊欠)ハ四家子、新立屯、黄花勾ヲ経テ白塔河ノ線二向イ前進シ

  本隊ノ右側ヲ援護シ兼テ第六師団ヨリ出セル支隊二連絡スベシ、騎兵四騎ヲ属ス、

 五、本隊ハ騎兵一分隊、歩兵第七中隊二砲兵一小隊、歩兵第五中隊ノ一小隊及ビ衛生

  隊ノ順序ヲ以テ前衛二続行ス

 六、予ハ本隊ノ先頭二アリ

                              支隊長 笹間少佐

 以上の通り午前一時、行軍序列に入り該地を出発。六家子に向かい露国軍の路上を北進し四時二十分、六家子南方高地に到る。明け方なので周囲は未だ暗く彼我の識別もつけ難い。

その時前方で銃声が聞こえた。こゝで戦闘が始まった。

我砲兵は五時五十分、距離三千二百米で目標の義合屯部落の全体を交互に砲撃を加えた。

暫く砲撃を続けると敵の四、五十騎が東方及北方に敗走するのが見えた。

そこで榴霰弾数発でこれを攻撃し数十分後我々支隊はこの地点を完全に占領した。

敵は尚興隆岑(義合屯北方約二千米)方向の部落に火を放って遠く北方に敗走した。

これで本日の目的は終ったので正午頃此処を出発、宿営地に向ったが帰着したのは午後五時五十分であった。

 七月十一日 再び前日の様に鴜鷺樹方面に偵察に出たが目的を果たした上、露兵一名を捕虜にして帰った。

 七月十三日我軍の最前線、昌圖東方高地一帯の陣地視察を兼ね第四軍司令官 野津道貫大将が後備混成第三旅団長大久保利貞(如水)少将の案内により戦利砲大隊の射撃演習を見学した。

 雨期に入って未だ三、四日であるが満州の気候は欝とうしい日が続き本日も雲が切れ切れに流れていて午後は又雨かと思われたが、どうやら天気は良くなった様だ。昨日の予定だった旅団の懇親会も雨の為今日、七月二十五日に延びていた。

 中隊長門田大尉及び森特務曹長と共に午前九時すぎ山河堡に向って小喜鵲台を出発した。

東南方約一里位の所である。

偶然にも今日は我砲兵隊が名古屋から武豊港へ向って本町の宿舎を出た二月二十五日から丁度六ヶ月目にあたる日だ。

 今日の宴会は旅団、即ち後備混成第三旅団の動員が完了し、初めて独立の行動が出来る様になった祝賀の為である。食卓に就いた将校は百余名、立食の宴は旅団長大久保利貞少将の挨拶に始まり万歳三唱に続いて宴が始まり各部隊から選ばれた兵隊の余興を楽しんで一日を過ごし夕方帰路についた。

 

 

 

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