明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (3)

当時田中幸三郎氏が(以前京都出張所主任)名古屋の主席で錦窯組を併せて総括していたが、この人こそ典型的な森村組を代表する人材で厳格で私無く常に率先窮行よく数百人の事務員、数千の画工を率いてその実績を挙げさせていた。

父は明治四十一年七月、二十年来の職を辞し森村組を退社する事となった。

父の功績が大であったので「親の光は七光り」で私の現在の地位があるのだ。

これを恥ずかしめない様に努力しようと自分自身に誓った。

二年、三年とこの錦窯組の見本工場を担当していた私にとうとう念願の叶う時が来た。

 明治四十五年三月頃アメリカへ出張の内命を受け同年六月十六日宮永氏と同伴でニューヨーク市の森村組へ向い横浜港を出帆した。入店以来六年半、月給十五円の辞令を辛抱した甲斐があって志望の一部が達せられた。(第八章参照)

大正三年二月十日帰国してからは横浜山下町の支店詰として雑貨部へ転勤した。

此処は東京本店を閉鎖して横浜支店として一年位前に移ったのである。

 今度の店は相当広く商館らしい貫禄を備えていた。私は又中村楠太郎氏の許に勤務する事になったが、この店の仕事はアメリカより仕入れに帰った人と共に各店、各地を周り見本の作成と仕入れの相談相手になる事だ。又それ等の人が渡米した後は一月の内一、二回は各店を周り見本や仕入れの指導等で半月以上は出張の連続であった。

森村組では一度はアメリカの地を踏まないと重要視されない傾向があった。

私も遂に広瀬実光氏の引き立てにより、この栄光に浴してからは重役に認められる様になって特待社員の待遇を受け社債の幾株かが自分の名義になり利益配当を受ける身となった。

    大正五年六月十四日再度の渡航(第八章参照)

大正七年一月三日帰国以来横浜店詰として勤務、雑貨に自信も出来た私は中京、関西、北陸地方を中心として雑貨の見本係として活躍、相当の効果を上げた。

広瀬実光氏が田中幸三郎氏勇退後名古屋の主任として就任、公私共、影となり日向となり私を援助して下さった事には感謝して止まない次第である。

 此の時代は森村組の黄金時代で私も相当の地位にあり給料も今は入社当時の十倍にもなっていた。(第二十二章参照)

  大正九年 三月十三日 第三回目渡米

  同  年十一月十三日 欧州戦乱後の状況視察の為英、仏、伯、和、独へ出張を命

             ぜられニューヨークを出帆渡欧

  同  年 二月十一日 神戸港帰着

帰国後は又横浜の店に籍を置き欧州から買ってきた見本を元に新しい見本を作っては以前の様に各店をまわる仕事を続けていた。

所が其の年の十二月又々名古屋へ転勤を命ぜられた。

翌大正十一年一月頃、森村商事株式会社は日本陶器株式会社の組織変更と共に合併して日本陶器株式会社となった。この為今まで森村で扱っていた雑貨はアメリカ店主任、手塚国一、足立の両氏を失ってから雑貨部全廃と言われていたので結局全廃され其の権利一切は本間氏の努力によりラングフェルダー及びヘイワードという三人に譲渡され別にLHH Co., という雑貨専門の店ができた。日本では雑貨の取り扱いを他の商館に移し横浜、神戸の店は個人名義の姉妹会社となり日本陶器会社は其の名の通り陶器専門の製造販売の会社となった。

それで私のヨーロッパ視察で集めてきた材料も一年足らずで十分活用する暇もなく名古屋へ戻されて終った。そして私の存在地位さえ、はっきりしなくなり少々不安になってきた。

そんな時広瀬氏より再び陶器部へ入って呉れとの依頼が有った。勿論適当な地位を考えるとの事だったのですべてを一任して数日が過ぎた。

一方此処に大磯文一という人がいた。この人は永くアメリカ店詰めで私もニューヨークで交際していた。丁度其の頃日本陶器では内地で広告用の注文が殺到していて食器類以外は製造が出来ない状態だったので之等の注文を一手に引き受ける人を探していた矢先私の話が出て私に意匠図案を担当させ大磯氏に販売をさせたらという話があった様で、大磯氏もかねてから日本陶器を離れ個人で営業を始める計画を立てゝいたので何度かの折衝の末、話が決まり遂に私に相談があった。  

元より私は広瀬氏に一身を任せてあったので一言もなく、大磯君とも再三交渉の結果十一年四月一杯で退社する事にして諸準備に取り掛かった。

 他方広瀬氏と関係者との間に次の様な特別の便宜を与えて呉れる話合が出来た。

  一、日本陶器の記事に広告用の図案を加えて作成した物の一手販売

  一、日本陶器への右に関する直接注文は受け入れぬ事

  一、日本陶器の生地は元値で支給し画付けも出来る丈工場で元値で仕切る事

 この様な条件で愈退社する事になってから広瀬氏が私を招いて実は東京の重役へ今回の君の事を種々相談したら「曽我にはそんな事は出来まい曽我は商売人ではないから止めさせて、もう一度何とか面倒を見てやった方が将来の為に良いのではないか」との事だった。

君はどう思うか今迄の話は止めたければ僕も考え直して見よう、との話であった。

私としては大磯君とも万事打ち合わせ済みだし、それぞれ準備もした後の事でもあり今日になってはもう引き返す事も出来ないので折角の好意は有難く感謝して御受けするが重役方へは宜しく伝言を願うと失敗を覚悟の上で新しい方向へ進む事として大磯君と共に会社を退社して終った。

振り返ってみれば明治三十八年十二月入社以来約十八年東に西に又は遠く外国に行って見本作成に従事して自信も有り又その途では認められては居たが遂に退社の止む無きに至った事は感慨無量、後髪を引かれる思いであった。

 人間の航路は一寸先は闇で、まして幸の少ない環境に生まれた者は終生この闇の中をさまよい、明るみへ出る事が出来ず其の身を終わる者もいる。

その闇の中へ飛び込んで苦しむ者も多い世の中へ好んで自ら飛び込む人間の一生が現在の私である。果して将来は幸となるか不幸となるか??

 

 

 

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