明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第九章 ニューヨーク生活(3)

 明治四十五年七月三十日 日本では天皇崩御せられ在留邦人は謹んで喪に服した。

翌三十一日 年号は大正元年となり在留邦人は皆黒の服装を着る事となった。

大葬遥拝式は九月十二日午後九時(国内では十三日)第七街と五十七丁目角のカーネギーホールで行われた。式は高峰譲吉博士の辞で始まり正面の幕が開かれ明治天皇御真影が見受けられた。遠く異国にいる我々は只々哀悼の意を表するのみである。

大正二年は夢の様に過ぎた。私も一年半をニューヨークで過ごし、図案も少しは役に立つ様になり、アメリカの様子も大体判り今回の渡米の目的も略、達せられたので、ひと先ず帰国する事となり、大正三年一月中旬ニューヨークを出発、二月十日横浜港へ着いた。

其の後第二回目の渡米は大正五年六月十四日、横浜港を出帆シヤトル周りで一等船客として、ニューヨークへ向かった。

この時店は二十三丁目のマジソンスクェアの近くのブロードウエイと六街との中間の七階建の堂々たるビルへ移っていた。日本の商館としては、右に出る物は無い。

此処は以前、蝋人形の歴史博物館(エデンミユージアム)があった所である。

第一次渡米の年は専ら陶器部の図案の仕事をしていたが、考えてみれば先輩が二人もいて後から時々見学程度にやって来る私が、之等の先輩の中に入って同じ様な事をしていれば何時迄経っても頭が上がらない。それで今回の渡米では心機一転し雑貨部の見本に力を入れる事に覚悟を決め早速重役広瀬実光氏に相談し、陶器部と縁を切り漆器、竹製品から玩具等陶器以外の物一切に手を付ける事となった。

そして主任が仕入れの為帰国する時は、必ず一緒に帰るか又日本にいる時は横浜を根拠として、各支店を駆け回り見本を作っては渡米し又主任が帰国すれば常に同行して、相談相手となり雑貨の仕入れを援け又見本を作らす等各方面に活躍した。

第二次渡米の任務も略、終わり、近く帰国する予定でボツボツ準備をしていた折も折、大正六年十一月十六日 一通の電報を受け取った。

噫 電文は簡単で詳しい事は判らないが、父が去る十日自宅で脳溢血の為人事不省との事であった。万事窮す・・・・・

急遽旅装を整え、翌七年一月二日横浜へ一人寂しく帰国した。
第三次渡米は勿論雑貨見本部の主任として乗り込んだ。今迄の主任だった安達氏が死去されたので後を支店長の手塚国一氏が部一切を引き受けていた。私はこの人の指図を受け雑貨部を拡張し大いに発展した。惜しい事にこの人も又亡くなったのでその後を、本間という永い経験を持った人とラングフェルダーという人(この人は雑貨のバイヤーでは他の店でこの人の右に出る人は居ないと言われる程の人であった)の二人が専任で大いに活躍した結果森村組の雑貨と言えば他の追従を許さない程になった。

これより先欧州大戦の結果、ドイツ製の「眠り人形」の輸入が途絶えたので森村組も、之に着眼し名古屋陶器会社の傍らへ大規模な日本玩具株式会社という人形製造の会社を設立した。

そして技師として荒木彦造氏がこれに当り研究の為フランスに滞在、人形の眼球の製造法を習得し帰国後日本で専ら其の製造に従事していた。

それで今回は更に胴、手、足の製造に必要な機械を購入する目的でドイツへ行く事になりニューヨークに滞在していた。私はこれを機会に一度欧州の状況を視察して見たいと思い日本の広瀬氏に渡欧の許可を得て、荒木君と共にヨーロッパに向かい大正九年十一月十三日 ニューヨークの港を離れた。

 

 

 

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