明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十章 ニューヨーク市所見(2)

 橋梁ではイーストリバーのブルックリン橋が世界一と言われている。十三年の歳月と二千万ドルの巨費を投じて今から三十年前に開通したもので、全延長五千九百八十九呎(約千九百米)丁度日本の十六町六間余である。

橋桁の高さは満潮時水面から百十呎(約三十五米)で、どんな大きな船でも自由に通過する事ができる。

両岸には二百七十呎(約八十米)の石門が立っていて、それから凧の糸目の様に多数の鋼線が張られ、それで橋を吊って居り、その線の直径は一尺二寸(約四十糎)との事である。

橋上には鉄道線路が四車線、電車の線路が四車線、他に車道が二本尚左右には歩道がある。

この他ウィリヤムス橋、延長七千二百呎(約二千百米)クイーンズボロー橋、延長八千二百二十一呎(約二千五百米)がありニューヨークの三大橋として世界に知られている。

千九百●●年、ブルックリン橋の上流に六千八百五十五呎(約二千米)の新大橋、マンハッタン橋が巨費で作られた。尚私が帰国した数年後の事であるが、この近くのマンハッタンと、ニュージャージーの間のハドソン河に架せられた大橋もできたという。

 このブルックリン橋架設には一つの悲話がある。

此の橋は吊り橋架設の名人ジョン・レーブリングという技師が設計したもので彼は一生の大事業として身をもって之に当った。然し工事半ばで亡くなってしまった。亡き父の遺志をついで息子のウィリアム・レーブリングは父に劣らぬ熱意で工事を続行したが不運にも、工事用のダイナマイトの暴発により廃疾者になって終った。然し彼は病床を橋の近くに移し数年の間、日々病床の窓から望遠鏡で工事を監督し、妻を身代わりに現場へ走らせては工事の指揮をして、遂にこれを完成させたのである。

実に前後十三年、父子二代にわたり橋の為、共に身を犠牲にしたという物語は今でもニューヨークの人々の間に語り伝えられている。

等々ニューヨークの事はとても簡単にこの稿では記し尽くせない。それで私が大正五年九月(第二次渡米後)母校へ寄稿した「ニューヨークから」の記事にて補充する事にした。

◯ニューヨークから          大正五年八月三日稿(千九百十六年)

 ーー中略

◯ブロードウエイは丁度日本の東海道ともいわれる街道でボストン市から続いているニューヨーク市の主要道路で賑やかな事も其の他の事も他の道路はとても及ばない。

こゝの四十二丁目から五十丁目辺りは劇場と寄席と料理店とホテルと映画舘が軒を連ねている。

◯映画の喜劇俳優でCharlie Chaplinと言う人がいて一週間に数万ドルの収入があるとの事だ。

◯中央道路のフィフス・アベニュウ(五番街通り)は模範的な道路でアスファルトで舗装され砥石の様に平坦で塵一つ落ちていない。この通りには電車は通されていない。

◯「GO!」「STOP!」の信号は巡査の手で行なわれ交差点の車馬の交通の安全を図っている。右側通行で、人道、車道の区別は、はっきりしている。

高架鉄道、地下鉄道、市街電車も縦横に走っている。

◯停車場はグランドセントラル・ステーションと言って二十世紀代表的な建物で此処からアメリカ横断の列車が出る。

他にペンシルベニヤ・ステーションもありワシントン市へ行くには、ここから乗る。

◯自動車の番号札は N.Y.200,000 という様な数字が付けられている。

◯然し今尚鉄道馬車がある、これは十九世紀の遺物だ。自転車は田舎に行かなければ、見られない。

◯夜中には道路掃除夫がポンプで水を流して道路を洗う。それらの為道路の維持費は予算の第二位という事である。

◯路の交差点の一角は居酒屋(所謂バアー)であるが酔って醜態を演ずる人は殆ど見かけない。

◯薬屋、ドラッグストアーは多くの場合、居酒屋と向かい会っておりアイスクリーム、ソーダ水等を飲む事ができる。

居酒屋は男性の便所、薬屋は女性用のそれである。

◯タバコ屋も菓子屋も食堂も実に多い。食事は一食十五セントでも五ドルでも十ドルでも食べられコーヒーは一杯五セントで飲める。

支那料理はチャプスィーといって至る所で支那人が経営している。日本人が大の、お得意だ然し店はあまり綺麗ではない。それでも日本人向きの料理だから大変繁盛している。

◯理髪店はイタリー人の経営が多い。職人の言う儘にヨシヨシと返事をしようものなら一度の散髪代に安い所で一ドル五十セント以上、少し綺麗な店では二、三ドルはかゝる。

ヘヤーカット五十セント~一ドル、シェービングも同じ位シャンプー、二十五セント~五十セント、ヘヤートニックも又同じ、それにマニュキュアも美しい女性にやって貰えば一ドル以上これにチップ等を合計すれば、なかなか安くはない。然し必ず全部して貰う必要はない。ヘアーカット丈で止めて、帰ってもよい。

◯洗濯屋 これは支那人が独占している様だ。日本人も、たまには営業している。

◯靴磨き 繁華な場所、公園の入り口、商店街の街角には三尺(約一メートル)位の高い椅子に腰掛けさせ足を揃えると磨いて呉れる。尚公園等では子供が小さい箱を持って「シャイン、シャイン」と言いながら人の靴を指さして、うるさく着いてくる。大抵五セント位やれば、それでよいのだ。

◯コインは何時も右のポケットに入れてチャラチャラ音をさせており居酒屋では賽子を振っている者も居る。雨が振ってもコート一枚で洋傘も持たず通(つう)ぶっているニューヨークっ児も靴は毎朝 五セント、十セントで磨かせている。

◯カラーは白く決して汚れてはいない。ネクタイはよく取り替える。ズボンは例え破れていても、折り目丈は付けている。乞食迄も山高帽で靴丈は、光らせている。

◯流行と言えば猫も杓子も其の流行を追い価格は問わず之に倣う。然し一度この流行が廃れると昨日の一ドルの品が今日は八十セントとなり、五十セントとなり遂には見向きもしない。

◯流行と言えば其の頃 ”Safety first” という語と ”Preparedness” という警語が大流行だった。兎角金が出来ると人間は怠け易い。がアメリカ人の偉い所、油断を戒めている。

 

===> 第十章 ニューヨーク市所見(3)へ続く

 

 

 

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