明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十一章 ヨーロッパ行(イギリスからオランダ迄)(2)

 さてロンドンに名残りはつきないが今朝はいよいよドーバー海峡を渡りフランスのパリーへ向かうのだ。

この海峡は僅か二十二哩(約三十五粁)の短い距離ではあるが渡船では四時間二十分かかる。然し潮の流れが速く少し風でもあれば小さな船は木の葉の様に揺れて船に強い者でも忽ち洗面器の厄介にならなければならない、という難所である。丁度私が乗った時は穏やかであったが、それでも担当ボーイが洗面器を持って右往左往していた。

幸にも私は我慢してデッキに出て空を眺めていたので難を免がれた。

カレーに着いたのは午前十二時頃であった。船客は上陸後税関の検査を受けて思い思いの方へ散っていった。

こゝで一つ面白い挿話がある。

ロンドンを出発する時森村氏の話ではパリーへ行くなら日本人の宿だから醤油を一升許り持って行った方が良い。パリーでは手に入らないから、との事で同氏の好意で鰻屋から一升瓶で買って貰った。所がフランスではワインを持ち込むと高い税金がかかるので入国の際の検査も厳重である。私が持っていった醤油の瓶も婦人の検査官に見つけられた。そしれ之は何かと言われたのでジャパニーズソースと言ってみた。すると検査官は疑い深くこれはワインだろうと言って瓶の口を開けろと言うのだ。

それならそれで驚かしてやろうと瓶の口を開けて鼻の先に突きつけてやった。すると検査官は早速その匂いを嗅ぐや否や奇声を発して「オーライ・オーライ」と言って行って終った。

あとでA君と顔を見合わせてクスクスと笑った。

そこから列車に乗りパリーに着いたのは午後四時頃だった。「諏訪ホテル」という日本人で元海軍々人だった諏訪という人の経営しているホテルに泊る事となった。

こゝは現代設備の整った一流のホテルとは言えないが一度パリーへ足を踏み入れた日本人は必ずこの人の厄介になる所で色々の手続きや土地の案内まで親切に世話をして呉れる。それで土地不案内の者には何より心強いので大抵の者はこの人の世話になり案内役をして貰うのだ。

サァー啞に近い私は、いよいよパリーに辿りついたとは言え明日からどの様にして市中を見物したら良いのか、レストランでは何を食べたら良いのか買い物は矢張り手真似で良いのだろうか、そんな事を考えると心細くなって終った。そこで諏訪老人に相談してみた。食事の方は二、三書いてよく説明して呉れた。これが肉、これが魚、これが何々とレストランでこれを見せて注文せよと教えて呉れた。朝食はホテルで済ませ夕食はホテルの隣に綺麗なレストランが在るのでホテルに頼んでおけば、その時間に行って指定のテーブルに着けば何の苦も無く食事ができた。必ず一合のワインがつく。蝸牛のシチューも決して気味の悪い物では無い。寧ろ牛の尾の臼の様な骨がコロコロ入っているシチューより余程食べ易い。

味はアメリカの様に濃厚ではない。又飲み物は色々ありシャンペン等はビールと価格は大差がない。殊にワインは常用飲料で、飲まないのが不思議な位だ。

 

 

 

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