明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十一章 ヨーロッパ行(イギリスからオランダ迄)(5)

セーブル 此処は名高い国立陶磁器製造所がある。

一日此処を訪れた。精巧な製品は只感嘆の他はない。然しこの製品は販売されていないので、市中では見る事は出来ない。

一通り市中の見学も終わったので百貨店を廻り見本になる品物を買い集め心許りの土産物も揃ったので旅の支度を整えて置き一日を戦跡見学に費やす事にした。

トーマスクックの遊覧バスに乗りパリーを出発したのは朝の八時頃。最初に着いたのは

 ランス 此処はパリーの東北にある人口十余万の大都市で大戦当時千九百十四年から十七年迄ドイツ軍の最前線がパリーから十数哩の此処まで迫りパリーの危険が目前にあった。それでフランス軍も死力を尽くして応戦した。この為ドイツ軍は此処から一歩も進む事が出来なかった。然しその結果此処が戦闘の中心となり市街は殆ど焦土と化し、その惨状は眼を覆わしめるものがある。今は只枯れ木に寒風が吹き荒び野良犬が餌を漁るのが見受けられる許りである。

漸く面影を残しているカテドラルは激戦を物語っている様で僅かに破壊を免がれたとは言えその惨状を眼の辺りに見ては戦争の恐ろしさを痛感する。

寺院の構造はパリーのノートルダム寺院のそれには及ばないが、そのゴシック建築は荘厳の限りを尽くしている。

 昔フランス数代の国王が此処で戴冠式を行ったという由緒ある有名な寺院である。

此処を過ぎて何哩か走った。道路は何処迄も平坦なアスファルトで舗装されている。村落をいくつか通り過ぎたが只茫漠たる原野に等しい。道路の両側には破壊された家屋の残骸が壁の様に立っている。所々に立てられた○○町、○○村、此処がシャンペン製造所の跡等と記された立札によってのみ以前の場所が判断される様な状態で、よくもこんなに破壊されたものだと驚きの眼を見張っては通り過ぎる。電柱も樹木も殆ど焼き尽くされ棒杭の様に残っている。

車に驚いて逃げ飛ぶ二、三羽の鳥の姿にも哀れを感ずる。

行くに従い不毛の丘を越えドイツ軍の陣地跡に着く。この辺りはドイツ軍の占領地だった所で見渡す限り小高い山あり谷あり川あり森林が在って守りに固く攻めるに容易な地形である。谷間を見下ろせば転覆したタンク、壊れた砲車等が散乱して当時の様子を物語っている。車を降りて小山に登った。あたり一面、大小無数の弾丸の跡が残っている。大穴、小穴は深さ三尺から六尺位(一米から二米)あり為に地形が変わったとも言える。

この様な地形を利用してぺトン(コンクリート)で構築された多くの塹壕は土砂の崩壊で跡を止どめない迄に破壊されている。峰続きの小山の後方には小運河が山の裾を巡って平野に流れて行く。又之に平行して稲妻形に六尺(約一米)の溝路が続いている。長期戦に備えてドイツ軍が軍需品の輸送と後方の連絡に船を利用した跡であろう。

車は小山を超えての帰路、或森林で止まった。此処がドイツ軍の砲兵陣地跡で、この森林の中に巨砲を備え遠くパリーを砲撃し又はフランス陣地を悩ましたとの説明があった。見ればこの辺一帯は大森林帯で砲兵陣地付近は樹木が伐採され砲座が構築され堅固な防御工事が施されていた。

戦後三年の今日迄尚見学者の為これ等の原形をその儘、残し悲惨な戦争の記憶を新たに、させている。午後四時頃パリーに戻った。

 

 

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