明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十二章 ドイツ行から帰国迄(1)

 欧州大戦は五年も続きドイツ軍は孤軍奮闘、連合軍を悩ませていたが千九百十八年八月、最後の大反撃も空しく連合軍の猛攻撃により先ずオーストリヤ軍が敗れ続いてブルガリヤが無条件降伏しトルコも之に倣った。

戦争中の国内の物資の欠乏はその極に達し且敗戦思想が広まり殊に永年、下層階級の中にあった社会主義はロシヤ革命に刺激されて、十一月始め国内の一部に革命の火が上がり之が忽ち全国に波及して遂にウイルヘルム二世はオランダへ逃れた。こゝでドイツ、オーストリヤ両国は一朝にして共和国になって終った。ドイツの敗北は実に思想戦で負けたのだ。

連合軍はこゝで過酷な条件を突きつけてドイツを屈服させ、ベルサイユ条約に調印させた。

国運を賭して戦ったが敗戦に終ったドイツは其の苛酷な条件に屈しなければならなかった。

その制裁を甘んじて受けているドイツはこの恨みは何時かは晴らそうと困苦欠乏に耐えつゝあるのだ。一千三百二十億金貨マルク、この巨額な賠償金をどの様にして払うのか!

 ハンブルグの街は暗い、一夜をパレスホテルに過ごしたが今日のドイツの現状、将来のドイツ、戦争の傷跡も生々しく人々に直接、間接に与えた影響は等とA君と語りあって夜を更した。

翌日は街を歩いて一日を過ごしたが、此処が北海ではこの国第一の貿易港だと聞く。その発展振りは敗戦国とは思えない程である。

ハンブルグからベルリンへの急行列車は戦前の時間より三時間程余計掛かるとの事だ。それは燃料に木炭を使っている為との事である。

ベルリンの停車場は流石に大都市の玄関でその構内も広大である。ベルリンとパリーを結ぶ幹線鉄道の集中する点に当り多数の引込線には多くの列車が煙を吐いて出入りも頻繁である。

プラットフォームから数十段の階段を登ると広い駅の本屋の構内に出る。外へ出ると馬車の客引がうるさく客を呼んでいる。馬車が多い。タクシーはガソリンの関係で少ない。ベルリンへ来て一番に感じた事は人々は何処へ行っても一生懸命、身なり構わず働いている事だ。パンも肉も切符制である事は言う迄もなく砂糖の代りに、コーヒー紅茶にはサッカリンが使われている。市中を走る電車は灯火管制の様に暗く食堂も又薄暗い。その電燈の下で怪しげな食事をしなければならない。

食卓の掛け布は紙製でリネンと殆ど区別ができない様に作られている。ナプキンも同様である。椅子のクッションも革と間違える程で勿論代用品である。タバコ屋では十本入りの小箱もあるが一本でも二本でも売ってくれる。

何といっても金貨マルクは賠償金として支払わなければならないので補助紙幣丈で国内の流通に当てゝいる。この為紙幣の価値は益々下る許りで紙屑の様になって終っている。米価一ドルは何千マルクという換算率となり恐ろしい程の金額の紙幣を手にする事となる。金貨マルクと紙幣マルクとの差は著しい。マッチ一箱何十マルク、タバコ一本でも何マルク、商店のウインドを見ると何千何百マルク、洋服やカメラ等は何万何千マルクと記されていて想像も出来ない様な恐ろしい数字である。

 

 


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