明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十二章 ドイツ行から帰国迄(4)

ベルリンの宿では英国人のモリソンという日本語をよく話せる人が旅行者の世話を大変よくしてくれた。官庁の手続きや列車の切符迄も買って呉れる。行く先々には便利な人がいてくれるものだ。言葉が判らなくても心配はない。

寝台車でベルリンを離れた。途中ベルギーとの国境で旅券を調べられ翌朝パリーへ着いた。

パリーへ戻ったのは十二月二十二日で再び諏訪ホテルの人となった。月末に出港する船で帰国する人がボツボツ集まって来て、このホテルの仲間になった。その内の一人にアメリカのカーネギー水産研究所で魚の脳髄を永年研究していた東北大学の教授で畑井新喜司という人と知合になった。この先生とは帰国後も音信を続けていた。(後大正十四年博士となりナマズ地震との関係を研究発表された)

パリー滞在中は日本へ帰る準備で毎日忙しい日を送って居り乍らオペラへは二晩も出かけた。

十二月二十八日 パリーを出発しマルセーユ港に向った。マルセーユは地中海の沿岸にあって東洋との貿易はこの国第一の貿易港である。こゝではグランドホテルに泊った。

こゝは貿易港である丈に船の出入りは頻繁で流石フランス第一と言われるだけに山積みされた積み荷と多くの倉庫がならんでいる。街は港街なのでそれ程綺麗ではないが小山の上にはノートルダム寺院がありケーブルカーが運行されている。他の大都市を見ているので驚く程の物はない。只こゝで畑井先生に是非試食して見よと言われてチュニカタ(ウニに似ている)を生で食べた。栗の毬(イガ)の様な形でそれを破ってマッチの先位しか無い黄色の身を取り出して舌の上で舐める様にして食べるのだが先生はこんなうまい物は無いと言って居られたが、私はそれ程までには思わなかった。海岸なので魚は色々売っていた。

 正月元旦を加島丸船上で迎え三日いよいよ出港する事となった。さらばヨーロッパ!!

一日一日、日本へ近づくのだ。冬の海は風寒く然し波は静かだった。数日間の地中海の航海の後ポートサイドへ着いた。此処で半日を過ごし、之から愈スエズ運河に向かう。運河に入ると船は畳の上を滑る様に少しの揺れもなく遅々と進む。所々ダムがあって船の航行を待っている。両岸は見渡す限りの平原で褐色の不毛の地が多く山々は遠く紫色に霞んで気温は春の様だ。時々駱駝の群れを見る位で風景は特に変化はない。河幅は左右に手が届くかと思われる様な狭い所もあるが水は清らかだ。一日一晩かかり翌朝スエズを過ぎ紅海へ入り通常の速力に戻り一路日本へ向う。一月二十日セイロン島のコロンボへ寄航して此処で夏服に着替え本場のカレーを辛さに汗を出し乍ら食べた。スコールの涼味は椰子の葉風と共に暑さを忘れさせてくれる。ヘルメットや籐のステッキを買った。街の或る寺院を見学したが僧の姿は仏画の羅漢その物で耳環が肩まで垂れている。其の付近ではコブラを背にした仏像を売っている。この他毛彫りの金属製の小箱や宝石を売っている店が多い。一月二十六日 シンガポール、此処で森村市左衛門氏系統で経営している南亜公司を訪ねてゴム園を見学した。又植物園も案内して貰った。南洋の珍果「ドリアン」や「パパイヤ」等も試食した。特に椰子の実を土人に取らせてその水を御馳走になった。此処ではインド更紗やシヤム製の絨毯を至る所で売っている。船客は大抵土産に二、三枚は買って来た。

 

 


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