明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十三章 (合)広進商会(3)

関東大震災の一年前、大正十一年十一月二十六日従来の店舗が狭くなったので、下竪杉町一丁目二番地へ移ってからは益々忙しくなった。

震災後小田原で木製玩具の製造をしていた、倉橋連之祐という人が私が森村組に勤務中、度々取り引きで知合であった関係から震災で焼け出された二、三人の工員を連れて私を頼ってきた。そして名古屋で是非玩具の製造を始めたいので、資金を出して呉れとの依頼があったので、同人三名と協議して大正十二年十月取りあえず三千円を出して製造を始めた。倉橋木工所として直営の形で今迄の名古屋式とは異なり新しい木製玩具が生まれる事となった。

その結果震災後一年許りは一ケ月三、四千円程度の注文も忽ち一万円以上となり、その製造能力も倍加しなければならなくなり、材料の仕入れ、工員の雇入れ等の費用は別の会計で補わねばならなくなって来た。

これに加えて地方の商店の支払いが悪く手広くやればやる程資金が必要となり、その度毎に大島君より融通を受け三年、四年の間には相当の額になっていた。

一方商売の方は震災後一年半位は独占的地位を保っていた。

例えば輸出品の中から日本の子供に向く様な物を選んで売り子に持たせてやった。

又日本陶器のトイ・ティーセット(子供向けコーヒー椀揃)一組で三円も五円もした。

これに西洋料理食卓作法という豆本を付けてみたり、日米親善の為青い眼の人形が来た時には、これに同じ様に旅券と乗車船券や日米の国旗等を添えて子供心に備え又澄宮殿下の童謡を印刷し嵌め込み玩具として売りだした。これは同殿下へ献上の栄に浴した。

然し財政は益々逼迫してきた。その上震災後名古屋の玩具製造屋は激増し然も安物の粗製品で我々の製品を模倣し、地方を回り得意先を荒らし瀬戸では自由人形なども似て非な模造品を造り価格で格段の差のある物等が出始め、我が方は高級品で御座る式ではとても競争が出来なくなってきた。その上東西の百貨店も帝都が復興すると地元の玩具問屋よりの納品が旧に倍して順調になり、然も我々の数少ない特殊製品と異なり多くの商品を取扱う様になってからは、その注文も十の物は八に、八の物は六にと言う様に段々減ってきた。それでなくても地方の玩具屋等は、支払いが何時も延び延びになっていて、一度や二度の催促の手紙では埒があかない。つい出かけて行っても半金位しか払ってくれない。

それも後の注文を出荷してからでなくては、残りを送金して来ないという有様で、集金も中々容易ではない。資本は益々枯渇して終い大島君よりの借り入れも益々嵩んで、経営が頗る困難になってきた。仕入れの代金も遅れがちになり思う様に仕入れも出来なくなれば、それ丈注文を受けても出荷が出来ないという状態で、大磯君も私もソロソロ頭を悩ましだした。けれども尚一年辛抱はしてみたが、大島君の特別会計書を計算してみると借入金も相当の額になっていた。勿論決算期の総勘定は赤字である。

 

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