明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十四章 中京玩具商会(2)

私としては、それと同時に又顧問として従来通り毎月此処へ出張して見本製作に当った。

然し是れ又組合員の不統一、並に児玉氏の最初の計画に無理な点が有ったので僅か数台の機械を動かしたのみで挫折し、同組合は解散し工場は徒らに雑草の繁るに任かす運命に至った。

 昭和三年一月それ以前より山崎氏と内外面共に知友の東京セルロイド加工所々長藤安藤五郎氏よりの懇請に快諾して更に顧問として十六日同加工所に入社した。

同加工所には森村組時代の同僚荒木彦造君が日本玩具(株)解散後私より前に顧問として毎月一回出張していたが同君は今回LHH商会へ入社し日本代理店田代商店で勤務する事となり此処を辞したので荒木君との関係又山崎氏との関係もあって今度私が代わって顧問となった次第であった。

藤安という人は薩摩隼人の豪快な負けず嫌いな人物で何時も自家用自動車を乗り廻している業界の大物であった。然し貿易全盛時代が終り一度不況の風が吹くと忽ちその影響をうけ王子堀の内に在った大工場も維持出来なくなり藤安氏は勇退し債権者側の深見豊氏が代って経営者となった。私は深見氏の元で二、三ケ月間は月に十日間は出張していたが一時閉鎖して陣容を改める事となったので私も顧問を辞したのが大正七年の春頃だったと思う。

 中京玩具商会は栄生町の旧日本玩具(株)の敷地内の営業所から東区往還町へ移転して人形の製造以外に諸玩具を取扱って売子を北海道から九州地方まで送り卸売をしていた。

昭和五年〇月頃から貿易部を設け私は専らその部を担当し、小中君は内地部を従来通り引き受けていた。が会計は別になっていた。

然し内地部と貿易部は利害関係も伴って両立せずこの際分離してお互いに授けあって仕事をした方が得策ではないかと私は白紙で中京玩具を退社する事となった。

 そこで舎弟の鉄良と中京兄弟商会を作り杉村町の石田佐吉氏の工場の一部を借りて吹付塗装工場を設けドイツ式ビスク(半磁器製)自由人形、大きさは七、八吋(十八~二〇糎)の製造に着手した。その当時この式のラッカー吹付塗装の人形は他に無く(私が研究を重ねて初めてラッカーで仕上げる事を考えだした物)その為各商舘で好評を得て殊にストロング商会、ウインクレル商会より多量の注文を受け日本陶器会社では特別の取り扱いを受け又ウルウォース商会よりの注文もあり製造は多忙を極めた。

 

 

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