明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十四章 中京玩具商会(3)

始めは裸体手足自由人形だけであったが、この儘では到底長続きはせず之を他に応用しなければ売れ行きも減少するに違いないと考えてからは、専ら着せ付け人形に留意し各種風俗人形や四季の風俗、又はその他の着せ付けをした物を、或は男女組に或は色取り合わせに苦心を重ねた物を作り各商舘の見本室を賑わした。

それで真の新見本は中京兄弟商会で無くてはならないという評判となり注文は益々増え現在の工場ではとても製造が出来ない状況となったので東区東大曽根に百五十坪位の(五百平方米)元陶器絵付工場跡を借り中京兄弟商会を曽我商店と名を改め大々的に製造を始めると共に受注にも全力を尽くした。

 その頃(昭和十年の春頃)から名古屋陶磁器工業組合から陶磁器の玩具を製造する者は組合へ加入して其の統制下でなければ営業できないという再三の交渉を受けたので市内三十余の同業者は協議の上、組合へ加入する事となり私と森岡氏の二人が其の代表として組合主事 城英一氏と数度の会見を行い諸条件を提出し相互の了解を得て八月二十七日組合では理事長井元為三郎の名義で加入承認の運びとなり同業者は夫れぞれ翌九月七日及び九日に二十余名の加入手続きを終え組合員となり新たに同組合絵付品部内人形部を組織する事となった。

そして評議員となり又人形部々長を犬飼勘次郎氏に副部長を私に委嘱された。

一方製品は寧ろ美術的人形とも言うべく製品としては最上の物であったが注文は常に価格に左右され思う様な仕上げも出来ない点が遺憾であった。

又工場と自宅との距離が遠く万事不便であったので工場を自宅に移し此処を中心に製造を初めた。内職の加工者は付近は元より数十町の所まで百軒以上を持ち繁盛を極めたが、元来商売人に出来上っていない私としては只々製品に重きを置き価格を無視しての製品であったのと、各商舘の望んで止まない商品であったので納期の遅れ位は問題にせず納品さえすれば客も満足して返り注文、追い注文は殺到した。以上の様な状態で注文は次から次へと殆ど一年中絶える事がなかった。然し受けた注文は何時も原価切れの赤字が多かった。

 

 

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