明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十五章 若竹寮 名古屋陸軍造兵廠専属宿舎(1)

 支那事変は昭和十二年七月七日廬溝橋に端を発しその後益々戦場が拡大した。

戦場の拡大に伴い軍需工場の大拡張が行なわれ産業戦士も大動員された。

名古屋陸軍造兵廠でも青少年工員の大量募集で数千人を集めたが其の収容宿舎の用意が無く困っているとの事であった。

 私は山田安太郎氏の勧めにより或一日、日比野寛氏(マラソン王)と共に熱田造兵本廠の庶務課人事係長陸軍工兵大尉(昭和十六年〇月少佐に昇進)横沢松次郎氏を訪ね工員宿舎の提供を申し入れた所、非常に喜ばれ是非頼む尚諸設備を色々整えれば宿料も高くなるので現在の儘で良いから至急その用意をして呉れ、人員は夫れぞれ配置するが工廠の名前は使わない様との事であった。その日丁度千種の工場から庶務の水野万右衛門雇員が来ているから万事その人に依頼して置くと水野雇員に紹介された。そして昼食を御馳走になって帰った。

 之れより先貿易の方も渋谷氏へ実権が移っているので今まで工場としていた自宅の隣の建物と、裏にある今迄下宿屋を営なんでいた二階建の広い建物を利用して渋谷要吉の名義で私が管理人という事で下宿業の認可を申請しておいた。それが認可され九月一日から営業を始める事となったので町名に因み「若竹寮」と名付けた。

 イの一番、然も八月三十一日午後四時頃父義雄氏に連れられて三重県員弁郡大長村の人で川瀬金徳(十八才)という人が水野雇員の紹介で来た。この人は昭和十四年十二月十日入営の時迄止宿していたが其の後、同君の父の話によれば入営後戦地で発病、内地の病院で十六年五月頃亡くなったとの事である。

翌九月一日には愛知県知多郡野間の森岡政一、二日には三重県多気郡五ヶ谷村の村上栄一等と一人増え二人増えして九月末日には二十余名の人が同じ釜の飯を食べる様になり段々賑やかになってきた。其の後間も無く定員五十名が充足した。

 当時の寮費は一ヵ月二食付きで金十二円三食付きで金十五円という安い価格であった。

其の頃工員宿舎としては千種管内に数軒しか無かったが毎月、千人位の人が新潟、長野、富山、岐阜、三重、静岡の各県から募集に応じて、この工廠へ又は他の軍需工場へも出てくるので宿舎難となり遂に国防婦人会へも呼び掛けて間借しを奨励する等一時は空いている所へは強制的に宿泊させるという状態であった。

 

 

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