明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十六章 趣味(上)- 1

 私の趣味は普通一般の趣味と収集趣味と二つに分けられる。

普通一般の趣味としては和歌、謡曲、仕舞、写真、園芸(朝顔及び菊の栽培)読書、釣り等で、収集趣味としては世界交通乗車券、明治文化に関する錦絵(地震に関する物、図書並びに印刷物)肉筆木版刷絵葉書、折熨斗(広告入)等でその他一時的に収集したものに入場券、箸袋、絵封筒、駅弁の包み紙、汽車汽船の時間表及び沿線図等がある。

 和歌は父について十五、六才頃からニ、三首づつ詠んでいたが、よい歌は出来なかった。

明治三十八年八月頃一家が名古屋市東区富士塚町へ移転してから直ぐ隣に名古屋の家人大島為足先生の邸宅があった。それで先生の門に入って添削を乞い四、五年間勉強してからは少しは歌らしい歌が出来る様になったものゝその後東京へ移ったり米国へ出張したりして段々遠ざかり以来歌らしい歌は詠んだことがない。

 謡曲は明治三十九年頃東京店詰めの折、神田小川町の堀越君の宅へ下宿していた時、土居という人の所へ週に三日づつ習いに行ったのが始めである。

其の後横浜詰めとなってからは森村邸へ週に一晩づつ教えに来ていた服部喜之師(後の観世喜之)について約一年位稽古をして貰った。

又この間、東京電気会社の重役であった森祐作という殆んど玄人に近い人から仕舞と謡曲を習った。

この人についても相当永い間稽古をして貰った。私が大正十年の暮れに名古屋へ転勤してからは京都美術学校の先輩で油絵科出身の浅井氏につき自宅へ出稽古に来て貰い二ケ年位勉強した。

其の後先の森祐作氏が名古屋の東邦電灯へ転勤したので同好の士、十数名と共に又其の教えを受ける事となった。この人から九番習の仮許しを授けられた。

然し妻浜子が亡くなってからは一切それ等の稽古は勿論本を拡げてうなる事等止めて終った。

 写真は美術学校時代に興味を持った。祇園河原下の家にいた頃其の近くに名所の写真を作っていた写真屋があった。私は毎日の様に其の工場へ行き焼付け(其の頃はPOP紙の日光焼付け)等の手伝いをしながら其の知識を得た。

私自身が写真機を持って実際に写し始めたのはアメリカへ第一次出張の時大正二年三月始めの頃からである。

其の頃同僚の鞭島健之助という人がアメリカ式の美術的写真を得意としていた。其の人の奨めもあり又アメリカへ来て写真機の一つ位持っていなければ日曜日等散歩にも出られない。婦人等が公園等であちらでも、こちらでもパチパチとスナップしている。

勿論自分で現像焼付けをするのではなく至る所に之を扱う店があってカメラマンの便宜を計っていた。

この様に写真機と散歩、人と自然とは不可分のアメリカではどうしても写真機の一台位は持っていなければならない有様であったので安価ではあったがイーストマンのスリーAコダックを買った。其の後二回目の渡米の際グラフレックスのキャビネ形に買い替えてからは随分研究もし、レンズも種々使用してみた。其の中で一番面白い画像が得られたのはウォーレンサックのベリトというレンズであった。千九百十九年この会社で同レンズで写した写真の懸賞に応募して賞品を貰った事もある。又帰国してから東京写真研究会で同レンズ使用者としては認められ大会の度毎に賞状を貰った。

 

 

 

 

 

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