明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(6)

 三月十二日

後民屯に着き舎営、十三日も亦滞在した。大隊の会報に

 一、奉天付近ノ開戦ハ一ト先ズ終局ヲ告ゲタリ。何時行動ヲ始ムルヤモ知レズ。依テ

  総テノ諸準備ヲ成シ置クベシ。

 二、携帯口糧ハ以前ノ如ク四日分携行セシムベシ。

 三、敵状二付イテハ第二軍ヲ除クノ外ノ部隊ハ心台子ヨリ石仏寺ノ線二前進シツゝア

  リシガ其後前進セシヤ否ヤハ知レズ、敵ノ大部隊ハ鉄嶺北方二退却ス。

 四、此ノ度ノ戦争ハ「奉天付近ノ会戦」ト命名セラル。

 三月十五日 午後四時頃満州軍総司令官大山巌元帥は幕僚を従え奉天城へ入城した。

二十五日には占領祝賀会を兼ねた大隊将校以上の親睦会が催された。

 其の後五月四日後民屯を出発、北進し鉄嶺の西北約六里(二十四粁)王千聡堡子の一村落、下旬子に着き滞在

 五月二十一日 昨二十日敵の騎兵大集団は我左翼を通過して後方の輸送関係及び小部隊の襲撃をしようと、遼河の右岸に出没し又法庫門から新民庁にわたる街道でも我宿営地を襲撃し尚進んで我々を攻撃しようとしているとの情報が入った。

それで、この敵を攻撃するべく依田少将の指揮下に入り新民庁へ派遣された。敵の兵力は騎兵砲四門、騎兵約二個師団及び騎歩兵若干も加わっているらしいと発表された。それで二十六日には太平庄という所に滞在していたが敵は既に田村旅団と秋山支隊の追撃で遠く北方に退却して終ったとの事なので同地を出発し帰路についた。

此の日はひどい雨で道路の泥濘(ぬかるみ)の為砲車を運ぶ事が困難で予定の王千総堡子に帰着する事が出来ず僅か砲車三門が辿りついたという有り様で残りの部隊は夜になったのと人馬共に疲労が甚だしく、あと僅かに二里余り(八粁)の途ではあるが、最早行進する事が出来ない様になったので伝令を送り命令を待った。九時半頃「残余ノ砲車及ビ弾薬車ハ其ノ村近ク二宿営スベシ」という連絡が来たので、その儘胡分屯の村に宿営した。

 翌二十七日一砲車に馬八聯(通常は三聯 六頭)で漸く午後九時三十分王千総堡子に帰った。敵が北方奥地へ退却する度に我軍も北進しなければならない。

 六月七日 我砲兵第二大隊は編制が変わり第四軍に属し、今迄の三個中隊を二個中隊に減らされ次の様に改称された。第四軍後備混成第三旅団野戦砲兵第一、第二中隊となり私は第二中隊付小隊長となり王千総堡子を出発し其の日は鉄嶺の南方約三粁にある大連花泊という部落で宿営し八日山頭堡に一泊、大柳家屯を経て十日午後三時頃、開原の北六里(二十四粁)昌圖の東南約1里半(約六粁)に有る永安堡という戸数の多い部落へ着いた。

こゝで第三師団で編制された後備歩兵と合流して第三旅団の編制が完了したのである。

 七月五日 宿営地を昌圖の東南二粁にある小喜鵲台という所へ移した。此の部落は一寒村に過ぎないが我軍の最前線であった。

  七月六日   大隊命令

 一、第五師団ハ明七日払暁偵察隊ヲ四面城方向二出シ䳄鷺樹及ビ太平岺方面ノ敵状ヲ

  偵察スル筈

 二、旅団ヨリ歩兵三中隊、騎兵一中隊、砲兵一小隊ヨリナル偵察隊ヲ出シ䳄鷺樹及ビ

  雙廟子方面ノ敵状ヲ偵察シ兼ネテ白塔河及ビ其ノ左岸ノ地辺二於ケル地形ヲ偵察ス

  。

 三、前項ノ砲兵一小隊トシテ第二中隊ヨリ砲車二門弾薬車二輛ヲ出シ曽我少尉之ヲ指

  揮シ本日午後七時迄二永安堡北端二至リ後備歩兵第三十四聯隊第二大隊長笹間少佐

  ノ指揮ヲ受クベシ        以下略

 予定時間に我砲兵小隊は後備歩兵第三十四聯隊第二大隊長笹間少佐の指揮下に入り永安堡北端を出発して馬仲和及び十七寝を経て午後十時五十五分、河家信子北方露国軍用道路上に停止して命を待った。

 

 

 

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