明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

2022-02-01から1ヶ月間の記事一覧

第八章 渡米(横浜出帆からニューヨーク迄) (1)

明治四十五年六月十六日午後三時横浜港を出帆した東洋汽船会社の天洋丸は 一等船客 百七十三人 二等船客 五十八人 三等船客 四百三十九人 私は二等船客の一人であった。 出発の合図の銅鑼がなった。見送る人はハンカチを顔にあて或はテープを手に持ち、それ…

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (3)

当時田中幸三郎氏が(以前京都出張所主任)名古屋の主席で錦窯組を併せて総括していたが、この人こそ典型的な森村組を代表する人材で厳格で私無く常に率先窮行よく数百人の事務員、数千の画工を率いてその実績を挙げさせていた。 父は明治四十一年七月、二十…

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (2)

本店の主任は中村太郎という前に関西貿易にいた人で仕入れ、見本等の監督をしていた。庶務には伊勢元一郎と深尾元邦という人がいて、この三人が森村家の三太夫であった。 この他に堀越和三郎という若い事務員や田村という森村家に縁故のある人が見本係をして…

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (1)

私の生涯の三分の一はこの月給生活であった。学校を出て専攻した絵画で世に出ようとした希望は卒業してみれば世の中というものは中々自分の思う様には行かないもので愈々となると目的も希望も変えなければならない羽目に陥るものだ。私が夫れだった。 森村組…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(8)

八月十四日 歩兵二個中隊乃至砲四及至六門を有する敵が午前五時頃我前面の三角台を占領し金山堡付近に来襲した。旅団は警急集合をし我大隊は午前八時五十分宿営地を出発、そして歩兵第十八聯隊長の指揮下に入り汗溝及び七家子を経て三角台に向ったが七家子に…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(7)

時に四日月は淡く西天に懸り星数は少なく静寂が辺りを包み犬の遠吠えが何となく無気味だ。今や我部隊は敵中に居るのだ。零時三十分支隊長より次の命令を受けた。 一、昨朝三十里堡二於テ敵ノ乗馬歩兵約五十騎、我将校斥候ト衝突シ北方二退却セ リ、第五師団…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(6)

三月十二日 後民屯に着き舎営、十三日も亦滞在した。大隊の会報に 一、奉天付近ノ開戦ハ一ト先ズ終局ヲ告ゲタリ。何時行動ヲ始ムルヤモ知レズ。依テ 総テノ諸準備ヲ成シ置クベシ。 二、携帯口糧ハ以前ノ如ク四日分携行セシムベシ。 三、敵状二付イテハ第二軍…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(5)

三月十日 この付近は我々が着く前に第九師団が苦戦した所で、今尚敵は桃家屯付近(約四千米南東)に居り堅固な陣地に立て籠っている。我々の任務はこれらの敵を撃破し第三軍を援助する事である。午前二時 大石橋東南端、街道寄りの畑地に肩墻を構築し、工事…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(4)

三月七日 今日も終日繰り返し楊子屯の敵砲兵を砲撃したが、敵の火力は尚衰えず昨日に増して激しく夜になっても砲撃は止まなかった。我方は午後九時頃砲撃を止め宿営地に戻り警急宿営をした。午後十時四十分 第八師団の命令を受けた。 第八師団命令 於 大楡樹…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(3)

三月二日(木曜日)この日私は中隊段列の指揮官として後方陣地にいたので、直接戦闘に参加しなかったが長灘に本隊を置いていた敵も昨日、月泡子と年魚泡の戦闘に敗れ長灘を捨てゝ退却を始めた。我中隊は終日之を長灘の北方へ追撃した。本隊の第一、第二中隊…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(2)

明けて三月一日(水曜日)この日天気は晴れていたが寒風は身を切る様に冷たい。 払暁、かねて工事をして置いた渾河右岸(蕜菜河子の西方)畑地に砲列を敷いて月堡子と年魚泡の敵陣地に向って砲撃を開始した。これが奉天付近の大会戦の第一日であった。 我大…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(1)

一人の絵描きも今は陸軍砲兵少尉として出征する日がきた。 武豊港へ到着した後備独立野戦砲兵第二大隊は朝から資材、馬匹等の積み込みで、兵隊達は目の回る様な忙しさだ。この船に乗船する部隊は後備歩兵第五十二聯隊本部及び第二大隊(一中隊欠)後備独立野…

第五章 兵役時代(2)

動員令は三月六日第三師団に下った。私も軍籍にあるので絵筆を捨てゝ第一線にたつ秋が来た。三月八日充員招集に応じ第三聯隊野戦砲兵補充中隊に入隊した。 第三師団は第一、第四師団と共に、第二軍に編成された。 四月十三日午前十一時七分愈々動員令が我々…