明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(8)

 八月十四日 歩兵二個中隊乃至砲四及至六門を有する敵が午前五時頃我前面の三角台を占領し金山堡付近に来襲した。旅団は警急集合をし我大隊は午前八時五十分宿営地を出発、そして歩兵第十八聯隊長の指揮下に入り汗溝及び七家子を経て三角台に向ったが七家子に着き更に前進しようとした時、敵は既に退却したとの報があったので、宿営地に戻った。 (午後一時頃)

尚朝方、第六師団の前方及び第五師団の前方にも砲兵或は機関砲数門を持った敵の襲撃があり特に第六師団前方の敵は頗る優勢であったが我々に損害もなかったとの事であった。

其後屢々各方面へ敵の来襲があったが何れも一局面の戦闘にすぎず我方に損害は無く何時も撃退して終った。時には数名を捕虜にした事もあった。

 滞在した小喜鵲台の四ヶ月は殆ど休戦状態で時々偵察に出たり時には小規模の敵の逆襲があった位のもので特記する事もなく過ぎた。

 その内九月十五日 午後六時には休戦命令が発令され我々は現状の儘次の命令を待つ事になった。満州の野山もそろそろ冬が訪れ軍服の襟に寒風を感ずる様になり、十八日夏衣、冬袴を着用すべしという衣替えの命令が出た。

 中隊では、十月の始め頃から夫々勲功調査で多忙だった。

   大隊命令

 一、平和条約ノ批准ハ十月十六日二発布セラレ日露両国平和ハ克復セラレタリ。依テ

   爾後対敵行動ヲ止メ専ラ休養衛生及ビ教育二顧慮シ、現在ノ位置二在リテ命ヲ待

   ツモノトス。

以上が十月十八日会報で平和克服に関する大隊命令であった。

十一月七日我々は旅装を整え小喜鵲台を出発、凱旋の途に着いた。

大連を出帆したのは十九日、宇品港に上陸したのは二十三日で、それから広島駅を出発して名古屋軍用停車場へ帰着したのは明治三十八年十一月二十九日午前零時三十分であった。

そして十二月四日復員解散、橦木町の父母の許に帰った。

明治四十二年四月一日には後備役に編入された。以上が私の戦争体験である。

 (註 この奉天会戦では我軍の死傷者は約七万名、露軍は約九万名、捕虜約二万名で

    日露戦争最大の会戦であったが、敵主力の殲滅という目的は達せられなかっ

    た。

    戦闘に参加した我軍二十五万、露軍三十万から被害を差し引いても未だ露軍の

    方が優勢であった)

 

 

 

※本ブログ記事には、現代社会においては不適切な表現や語句を含む場合があります。当時の時代背景を考慮し、文中の表現はそのままにしてあります事をご了承ください。

 

※本ブログの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。まとめサイト等への引用も厳禁致します。