明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (1)

私の生涯の三分の一はこの月給生活であった。学校を出て専攻した絵画で世に出ようとした希望は卒業してみれば世の中というものは中々自分の思う様には行かないもので愈々となると目的も希望も変えなければならない羽目に陥るものだ。私が夫れだった。

 森村組へは父が勤務していた関係上後継者として勤務しなければならない様になったからだ。元より私の家の生活は決して豊かではなかった。父の収入もそれ程余裕がある程でもなく四人の男の兄弟にも、それ相当の教育を受けさせなければ、ならなかった。

私が美術学校を卒業する迄は思い出しても気の毒な程の苦労をかけ又生活物資も森村組京都出張所主任田中幸三郎氏に一方ならぬ御世話になったと聞いている。

然も舎弟錦五が上級学校を目指して勉強中等の事もあって私はどうしても一切の志望を捨てゝ少しでも父を援け家計の補いをしなければ、ならないのであった。

こんな事になるのだったら寧ろ図案科でも習得する方が良かったと思った。

折角絵画科を専攻し乍ら図案部の人となるのは実に残念でもあり将来の不安もあった。

然し事こゝに至っては如何とも致し難いので私としては只々将来外国の土を踏んでみたいという希望丈は捨てなかった。父の意に従い森村組で頑張れば其の機会も有るのではないかと意を決して入社したのは明治三十八年十二月二十五日だった。

 そして名古屋市東区橦木町の森村組名古屋出張所図案部の父の許に勤める事になった。

「爾今、月給金十五円也を支給す」という辞令を貰った。美術学校、然も専攻科二ヶ年も習得した私としては少し情けない気がした。が父の言葉も有り又渡米の機会も有ろうかと、それを楽しみに之等の待遇に甘んじ乍ら父の側で図案の手伝いをしていた。

やがて一ヶ月、二ヶ月と過ぎ様子も段々判ってきたとは言うものゝ一つの図案を描くという事は中々容易ではない事が判ってきた。紙や絹地に描くのとは格段の相違があり注文主が気に入る様に考案しそれを品物に当てはめるには、一朝一夕の技では出来ない。そこへ行くと父は万事心得たもので花瓶であれコーヒー碗であれ丼、皿、何でも注文される儘にどんな模様でも苦も無く作成し今日の図案は明日の見本となって終う。そしてその構図には驚く外なかった。青二才の学校出位では月給十五円也は矢張りそれ丈の事であると痛感した。

図案部には父の他に助手が一人いて計三人だった。

私は考案というよりは時々見本置場へ行って色々と実物について調べる事だった。

そして米国にはどんな図案の物が向くか、その形はどれが米国人の嗜好に合うか等という事が少しは判ってきた。

其の頃の日本の陶器も改良に改良を重ね殊に日本陶器会社では飛鳥井孝太郎という技師が欧州で種々研究して帰って来てから白色磁器の製造に成功し外国の製品と殆ど変わらない様になった。之には重役の大倉孫兵衛氏の尽力の大なるものがあった。之と同時に絵柄ではドレスデン風という小花を散らした模様が全盛を極めていた。

ドレスデンとは英国の陶器製造所のある都市の名で、そこで作っている特殊の画風を森村組で模倣して各種の物に応用した物でそれでドレスデン風という名がついていた。

図案部に勤める様になって半年位は之という仕事もしなかったが六月になって東京の森村組本店(京橋区木挽町)へ転勤を命ぜられたので六月五日に着任した。

 本店といえば大変立派に聞こえるが、この本店というのは旧式の日本家屋の二階建で、これがニューヨークや横浜、名古屋、京都、神戸に堂々たる支店出張所を持つ森村組の本店かと呆れる許りの小さな店だった。

店の隣が社長森村市左衛門氏の仮寓で鈴木お留さんという人が住んでいて社長は隔日に此処へ泊りに来ていた。子供も三、四人いた。

 

 

 

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