明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (2)

本店の主任は中村太郎という前に関西貿易にいた人で仕入れ、見本等の監督をしていた。庶務には伊勢元一郎と深尾元邦という人がいて、この三人が森村家の三太夫であった。

この他に堀越和三郎という若い事務員や田村という森村家に縁故のある人が見本係をしていた。又リネン部には長沢幸太郎という人が主任をしていた。

他に柴田という倉番と荷造係が五、六人いた位で本店としてはあまり立派ではないが、それでも毎月相当の出荷があり忙しかった。

私はこの中村さん、田村さんの下で見本の考案と蒐集とを専任された。

品物の種類を覚える為見本室の整理、見本原簿の作成、受け入れ、発送等一切を取扱う事になった。雑貨は凡ゆる範囲の見本が集まってくる。玩具類、アンチモニー製品、小児雨傘、紙傘、漆器類、箱根細工、銅器等々之等全部夫れぞれ処理しなければならない。

名古屋の図案部とは趣がまるで違い多種多様の知識が必要となるので一生懸命に勉強したがそれ丈けに又興味も湧いてきた。

 其の頃重役の永井儀三郎という人が毎月一回各店を廻って米国からの注文一切について調らべに来ていた。又米国からは広瀬実光氏が毎年帰国し見本を作らせたり見込み注文等の後帰米していた。

この人は重役広瀬実栄氏の息子でその頃米国の支店で雑貨の仕入れ主任として活躍していたが将来は重要な地位につく人だった。(後に帰国し日本陶器会社の社長となり現在では飯野逸平氏に席を譲り元老となっている)

幸にも私はこの人の知遇を受け帰朝の際は公私共に世話になった。そして何時も「君の骨は拾ってやるから、もう少し辛抱していて呉れ」と言っては私を励まして呉れた。

此処まで来ると私は初めて月俸十五円の辞令に脱帽せずには居られなかった。

そして自分の将来に光がさしてきた様な気がしてならなかった。

社長森村市左衛門氏は一週間に一、二度店へ来ても別に用事も無く商売の状況を聞く程度だった。

高輪の八つ山の邸宅へは月に一度や二度は招ねかれて御馳走になったり種々の催しがある時には店員一同が手伝いに行ったりして総てが家庭的で親しみ深く店員も親の家へ行く様な気持ちで一夜を楽しく過ごして帰るのが常であった。殊に開作氏の令閨卯女子さんは日本の鉄道の開通当時、鉄道頭として有名な井上勝伯氏の令嬢で社交的な人だったので何時もこの人を中心に遠慮会釈も無く歓談をした。

私は東京にきて一ヶ月許りは店の二階に寝泊まりしていたが後、京橋区槇正町の下宿に移りそれから神田小川町の牛肉店「中川」の堀越和三郎君の裏二階へ同居する事になった。

東京の生活も漸く一年半を過ぎ雑貨の知識も出来て、これからという時、即ち明治四十一年一月七日名古屋の森村組出張所(則竹町)へ帰任を命ぜられ画工部錦窯組の見本工場の主任となった。此処で再び陶器の見本の研究をする事となった。

この工場は総員五十余名でアメリカから送ってきた所謂絵紙によって其の意匠を応用して夫々品物にあてはめるのが本業で此処で図案を作るのではない。これの監督である。

然し秋の見本製作の時期は忙しく徹夜の仕事も再三であった。何といっても数百種の図案により出来た見本は千点以上もあり、之等を指定の時期にアメリカへ送り選ばれた物を次年度の商品として六個の見本を作るのだ。

之が第一の仕事ではあるがこれ許りではなく工場独自の見本も作ってはみる。勿論見本を描く者は錚々たる一流の画工ばかりで波多野一岳、木村桃泉、関谷一舟、中野愫鷹、等は絵画出の人であった。洋画では木村義一、市木慶次郎等は当時は徒弟として修行中であった。

以上の様にこの見本工場は森村組の根幹であり重要な役割を持っていたので許可が無くては入場できない程でその監督も又重要な責任を持たされていた。

 アメリカからは毎年宮永虎之助氏が帰国して半年位滞在しては見本の指示をしていた。

私が名古屋へ来て程なく社長森村市左衛門氏から次の様な手紙が来て社員一同へ森村組の真の精神を伝えて呉れとの事だった。

 其の後は益々御健勝大慶に御座候、扨各諸君も皆勉強被致候事当組の為奉謝候、茲に

 一言申上度は東京と違い度々面会の時無之に付我々の意思を通ずる事十分ならず君は

 東京にて近く度々面語せしには此辺の事御承知と存候よくよく社員一同へ誠実表裏な

 く当店の為則自分の為一心不乱に真の道を踏みて進む様御尽力被下度候也   草々

     二月十六日                        市左衛門

   曽我年雄様

 東京本店と名古屋出張所、おたな風の家族的気風と組織だった会社風の空気とは差があって当然で名古屋へ来てそれを感じたが社長の意思を伝えて果して効果が有るだろうか私は二年近く社長の元で朝に夕に其の精神を以て教育されて来たが社長とは顔を会わせる機会の少ない名古屋の社員は果して森村組の精神を理解して呉れるだろうか、私は機会ある度に社長の意思を伝える様に務めた。

 

 

 

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