明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十五章 若竹寮 名古屋陸軍造兵廠専属宿舎(2)

又新築中の大きな家はこれ又強制的に軍で借り入れ寮にする等、或いは営業を目的に新築する者も多くなり十六年末には軍指定の寮は実に七十軒に及んだ。

之等の寮は造兵廠直属で青年工員寮と一般工員寮との二つに分かれている。他に造兵廠直営の技術養成所生徒宿舎、徴用工員宿舎の二つがある。

先の青年工員寮は大抵五十名以上を収容できて建物も寄宿舎式に建てられていて人員の監督に便利な様になっているが家が選定されており此処へ入る工員は統べて徴兵検査以前の者だけで造兵廠指名の正、副二名の寮長が寮生一切の監督をしている。

其の他に寮では寮の主人又は管理人がいて食事万端の世話をする様になっていた。

一般工員の寮は二十才以上の者を収容するもので、この方は一般家庭で二十五名位収容できる家か寄宿舎風の家でも認められていた。之れらにも又寮長、寮母がいる。

寮母は造兵廠に籍があり一般工員と同じ資格を持っている。そして給料は造兵廠から支給される。勿論収容人員により一寮内に二人、三人の寮母がいる所もある。

若竹寮は一般工員のそれで公認されたのは昭和十五年十二月一日で収容人員は五十名となっていた。

各寮は次の様な監督下にあった。

                         尾陽寮(御器所町)

                   ┌補導官  │東 寮(都  通)

             ┌郡長   │ 八木軍曹┤若竹寮(若竹町)

             │  水野属│     │東 寮(神田町)

千種製造所々長 総郡長  │郡付補導員│     │高辰寮(若竹町)

   居川中佐ーー金丸少尉┤ 米沢栄生┤     │覚王寮(覚王山通

             │     │     │***

             │     │補導官  │***

             └略    └ 伊藤雇員└***

 

若竹寮は公認の指定は他の寮より遅れていたが横沢少佐からは始めから模範寮として認められていた。その為同少佐が東京の造兵本廠へ転勤になる時記念の為寮生と共に記念撮影をされた事は寮としては光栄であった。

同少佐の寮に関する功績は大で今日の様に工員を容易に収容出来る事も又寮の風紀についても同少佐の計画は次々と進められ寮の統一、寮生の教育指導等に当たり親しみ深かった事は忘れる事が出来ない。

その後は庶務課長永久保諦一郎大佐が部下の田原中尉や松岡雇員を督励し熱心に寮の改善、収容その他諸配給の斡旋等、必需品では燃料等に至るまでの手当をして呉れた。

然し軍と民との関係は不可分の関係ではあるが或点では絶対軍の指導下にあり或点では全然無関心で軍としては何等の責任を追わない点もあった。寮費の点でもその経営でも寮主の自由で十五円の所もあれば十八円の所もあった。最近の物価上昇の際なので値上げの事を議題に寮主会で一定の額に決めたらどうか、との案も出たが決める事は出来なかった。

 それから暫くして次の誓約書に対し請書を出す事になった。

         誓約書

  今般貴廠工員宿舎トシテ御指定相成候二就イテハ左記条項ヲ遵守シ遺背致間敷候也

       左   記

  一、宿泊人員及宿泊料ニ付予メ貴廠ノ承認ヲ受クル事之ガ変更シ為サントスル時亦同ジ

  二、宿舎ノ諸施設ニ付キテハ貴廠ノ指示ニ遵フベキ事

    右誓約ス

  昭和十七年三月ニ十八日

                           住所  寮名  姓 名

 名古屋陸軍造兵廠庶務課長殿

 

         請   書

  今般貴廠工員宿舎トシテ御指定相成候ニ就テハ左記ノ通リ御請候也

  一、宿泊定員ヲ五十名以内トス 但シ場合ニヨリ定員ヲ超過スル事アルベシ

  ニ、宿泊料ハ朝、夕二食ヲ給シ一人一ケ月金十六円トス

    但シ中途退寮ノ場合ハ日割リ計算トシ又欠食二日(朝夕二食ヲ以テ一日トス)

    以上ニ及ブ時ハ一日ニ付キ金三十銭(朝食十銭、夕食ニ十銭)ノ割戻ヲナシ、

    尚休日ノ昼食ハ各人ノ希望ニヨリ之ヲ給シ、所要ノ代金ヲ其都度別ニ徴スル

    モノトス

  三、入浴ハ自家浴場、付近共同浴場ヲ利用シ入浴料ハ別ニ徴収セズ各自負担トス

                                     以上

  昭和十七年三月ニ十一日

 名古屋陸軍造兵廠庶務課長殿

 

当寮は昭和十五年二月より一枝を寮母として勤務させている。尚軍属の宣誓は昭和十六年九月一日であった。尚十七年四月一日からは入、退寮共に其の願いによって庶務係長の許可を得なければ寮主の一存で左右する事が出来なくなった。尚寮長として阿田原穂積を推薦し之に当て寮内の一切の事を責任をもって処理させる様にした。

この人は佐渡の人で未だニ十ニ才ではあったが一昨年頃迄は相当多くの人々に迷惑をかけ一時は退寮させる迄になったが其の後人が変わった様に真面目となり四月になってから特待工の待遇を受ける様になった。

現在昭和十七年五月末には三十三名の寮生を収容している。

 

 

 

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