明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(4)

  三月七日 今日も終日繰り返し楊子屯の敵砲兵を砲撃したが、敵の火力は尚衰えず昨日に増して激しく夜になっても砲撃は止まなかった。我方は午後九時頃砲撃を止め宿営地に戻り警急宿営をした。午後十時四十分 第八師団の命令を受けた。

  第八師団命令                     於 大楡樹堡

 一、後備独立野戦砲兵第二大隊、戦利野砲中隊及ビ重砲隊ハ、明払暁ヨリ今日ト同一

  ノ陣地二侵入シ沙坨子、甘官屯、楊子屯二向ッテ時々射撃ヲ緩急シ敵ヲ脅威スべ

  シ、両翼隊二分属スル砲兵モ亦之二参与スベシ、予ハ午前曽家屯ニアリ

 三月八日 午前三時 前日同様、陣地について楊子屯方面の砲撃を開始午後零時十分より楊子屯東方二千米にある鄭家窪子方面に居る有力な敵砲兵に砲撃を加え之を沈黙させた。午後七時 前進命令を受けて魚鱗堡に進んだが敵は未だ近距離の地に居り危険なので引き返した。

 歩兵は其の前面で退却する敵を追撃して居る。激しい銃声は絶え間無く尚戦闘は続けられている様で時々流弾が飛来して砲身に異様な音をたてゝいる。午後二時次の訓令を受けた。

 ◯第八師団訓令

 一、第一、第四軍前面ノ敵ハ潰乱シテ退却ヲ始メ又第三軍前面ノ道義屯、転湾橋付近

  ノ敵ハ我方ノ攻撃二耐エズシテ奉天二向イ退却セリ、第一、第四軍ハ長岑子、万家

  岺、大張二屯ヲ経テ蘇家屯二亘ル線二向イ敵ヲ追撃ス。第五師団右翼隊ハ只今莫家

  屯ヲ占領セリ。

 二、両翼隊長ハ何時追撃ヲ命ゼラルゝヤモ斗難事ヲ顧慮シ午後二於イテ前面ノ敵二対

  スル攻撃方法ヲ計画シ陣地ノ偵察ヲ勉メテ綿密二ナシ置クヲ要ス、亦敵状第一項ノ

  如クナルヲ以テ我前面ノ敵モ何時退却ヲ始メ或ハ之ガ為二逆襲ヲ企ツルヤモ斗リ難

  シ、故二各隊長ハ之ノ点二注意シ為シ得ル丈ノ手段ヲ以テ敵ノ動勢ヲ絶エズ偵察シ

  異常アル場合ニハ最モ迅速二報告スルヲ要ス、亦第一項ノ敵状ハ洩レナク部下二伝

  達シテ士気ヲ振起シ以テ戦闘終局ノ成果ヲ収ムルノ期ヲ逸セザラン事ヲ望ム。今ヨ

  リ重砲隊、後備独立砲兵隊ハ沙坨子ノ敵方二向イ砲撃スベシ。

 ◯師団命令   午後二時二十五分発同三時着

 一、第四師団ハ今朝既二蘇家屯、北達子営ヲ占領セリ。

 二、植田支隊ハ二台子ヲ占領セリ、第五師団ノ右翼ハ莫家堡ヲ占領セリ、沙坨子ノ敵

 砲兵ハ逐次減少スルモノノ如シ。

 三、師団ハ状況ノ進捗二伴イ再ビ攻撃二転ゼントス。

 四、重砲隊ハ沙坨子付近ノ敵砲兵ヲ砲撃スベシ。

  九日 午前二時頃 大隊から次の命令を受けた。

 師団ノ主力ハ払暁ヲ以テ概地ヲ出発、第三師団ノ左翼二転出セントス。

(因に第三師団は前民屯、後民屯方面から奉天に向い攻撃している、其の左側とは大石

 橋付近奉天街道である)

午前六時三十分 大楡樹堡の砲廠を出発、編制順序を以て大石橋に向い前進、後民屯「ジヤヘン」を経て午後十一時二十分大石橋に到着した。

此の日は朝から強風が黄砂を吹き上げていた。黄塵万丈とはよく言ったものだ。

然も此の風は北から吹いて我軍から言えば、追い風で敵に対しては向かい風であった。

一間(二米)先さえ見えず丁度霧の中を行く様だ。黄砂は実に細かく灰の様なので隙間さえあれば、何処へでも入ってくる。三十分もその儘に放っておけば、人も馬も器材も黄土色に変り口の中迄ジャリジャリして眼からは涙が出てくる。車の轍や人馬の通った跡は丁度雪が積った時の様だ。この黄色の風は気候によって蒙古辺りから吹いて来るとの事だ。

前述の様に我々の作戦には、天祐神助とも言えるので誰言うともなく「神風」と言っていた。大石橋と言う所は其の名の通り大きな石橋があり奉天街道にある一部落である。今は敵兵の為多くは破壊又は焼き尽くされている。此処から奉天迄は約三里(十二粁)の行程だ。

 

 

 

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