明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(2)

明けて三月一日(水曜日)この日天気は晴れていたが寒風は身を切る様に冷たい。

払暁、かねて工事をして置いた渾河右岸(蕜菜河子の西方)畑地に砲列を敷いて月堡子と年魚泡の敵陣地に向って砲撃を開始した。これが奉天付近の大会戦の第一日であった。

我大隊の左翼の第八師団の山砲一個聯隊と戦利野砲隊の一個中隊が同時に砲撃を始めた。その結果午後一時頃月堡子の敵砲兵は沈黙し数カ所から火災が発生した。然し年魚泡の敵は益々砲撃を続け、その間機関銃の音は絶え間無く我々の前面数百米の所へ砂煙りを上げており頭上では無数の曳光弾が炸裂している。

時刻は一時半我々は前進命令を受けた。「直ちに煙台子北方畑地に進出して第八師団の山砲と共に年魚泡の砲兵を壊滅せよ」と。

 そこで我々は直ちに方向転換をして約千米西北へ前進した。その時の光景を日誌に記してあるのは次の様である。

  ◯生きているのが不思議

 私はもう生きて再びこの日誌を書く事も出来まいと思った。前面、年魚泡の敵は約五十門の砲を有する大部隊で優勢なのに加えて我々の方は遮蔽物が何も無い畑地を斜横隊で前進するのであるから敵にとっては好目標である。撃ってくるわ撃ってくるわ、その猛烈な事は言語に絶する。頭上でも足元でも砲弾が炸裂し馬は倒れ人は傷つき暫くは前進も出来ない程であった。その上、高梁の切り株の多い畑地の畝を乗り越え小溝を飛びこえ敵に則面を見せつゝ進むので砲も馬も仲々思う様に進む事ができない。それでも漸く目的の陣地へ着いたのは砲三門だけであった。が兎に角砲撃をしなければと直ちに砲列を敷いて急砲撃で、これに応じた。

 敵は我々の位置が定まった事を知ると待っていたと計り前にも増して砲撃を加えてきた。

弾丸は雨、霰の様に隙間なく飛んできては炸裂する。その破片は砲手を傷つけ砲を砕き炸裂音は耳を聾する計り周りは濛々たる砲煙と土煙りに包まれてしまった。

この様な苦戦の中でも我々は急射に急射を以てこれに報い大いに敵を悩ませたが五十門余を有する敵に向って僅か五門や六門の野砲では弾丸も少く、とてもこの様な状態は永く続ける事はできない。まして畑地に露呈した砲列を敷いている我が方にとって其の苦戦は極に達した。

殊に後方との連絡は犠牲を払うのみで頗る困難であった。最初の陣地では中隊段列から隠蔽して渾河の氷上を橇で移動する事が出来たが今の火線は中隊から五百米離れ畑地に露呈した所で而も弾丸の下を潜り数貫目(二~三十瓩)の弾薬箱を担いで運ばなければならないので、其の困難な事は言う迄も無い。それで弾丸の補給も一時途絶え撃つ弾丸も無くなって終い午後三時頃には遂に射撃不能となり中隊長初め砲手も空になった弾薬箱を楯に弾丸を避け後方に退き時間の経過を待った。

午後五時頃になると漸く我軍の砲撃に耐えかねたのか、敵軍は火を放って退却を始めたらしく年魚泡は黒煙をあげて燃えている様だ。

 この日我大隊は砲手二名戦死、十二名の負傷者を出し私の小隊では砲手六名が負傷した。

馬の損傷は七頭で、弾薬は我中隊だけでも鉄榴弾二百七十二、榴散弾四百三十四を消費した。敵の大部分は既に退却したと思われるが万一の場合を考えて、午後七時頃旧陣地に戻り露営をした。

 

 

 

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