明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(1)

 一人の絵描きも今は陸軍砲兵少尉として出征する日がきた。

武豊港へ到着した後備独立野戦砲兵第二大隊は朝から資材、馬匹等の積み込みで、兵隊達は目の回る様な忙しさだ。この船に乗船する部隊は後備歩兵第五十二聯隊本部及び第二大隊(一中隊欠)後備独立野戦砲兵第二大隊本部及び第三中隊であった。

 我々が乗り込む御用船は河内丸といって約六〇〇〇トン速力は十二ノットで当時としては大型の船であった。私は先発として先に乗り込んで諸準備をして皆の乗り込むのを待っていた。船に乗るのは初めてだったが大きい船なので安心した。

荷積みも終り翌二十六日 万歳の声と共に出港は、したが行き先は誰も知らなかった。

目的地に近づいたと思われた頃(一月三十日)漸く行き先の発表があった。我々は清国の柳樹屯へ上陸するのだという。柳樹屯とはどんな所だろうか、

 二月一日 大連の東方柳樹屯の沖合へ倒錨した。

徹夜の作業で積み荷を卸し上陸をしたのは翌二日であったが其所は徹夜の作業中にもはっきり判る白皚々たる雪の平野であった。気温は零下三十度、吐く息は忽ち凍り髭は針金の様になりガサガサ防寒衣の襟に音をたてゝいる。夜の明けるのを待って直ちに出発、北方二里(約八粁)■家屯【■は門構えに稲のつくり、以下同】という部落へ着いた。愈々明日から奉天に向って行進しなければならない。充分準備をする為一日滞在した。

 私の日誌「満州の塵」に奉天付近の大会戦に参加する前日迄の行軍日記として柳樹屯上陸以来の事が次の様に記されている。

  明治三十八年一月二十五日 名古屋港出発

          二十六日 武豊港出港 河内丸

        二月  一日 清国 柳樹屯着 河内丸

            二日 上陸 柳樹屯発北方約二里(八粁)■家屯着 滞在

            三日 同地滞在

            四日 亮甲站の北方約二粁■家屯着、行程約七里(二八粁)

            五日 普蘭店東南約一・五粁、王家屯着、行程約六里(二五

               粁)

            六日 南瓦房店西北二粁山子嘴着、行程約七里半(三〇粁)

            七日 得利寺東南約三粁花江溝着、行程約七里(二八粁)

            八日 同地に滞在

            九日 北瓦房店西方約三・五粁薬王廟着、行程約六里(二五

               粁)

            十日 熊岳城北方約四粁宗家屯着、行程約六里半(二八粁)

           十一日 蓋平西方約四粁東海山寨着、行程約七里(二八粁)

           十二日 大石橋東南約二粁鉄岑屯着、行程約六里半(二六粁)

               滞在

           十三日 同地滞在

           十四日 海城西北方三・五粁蘇家屯着、行程約六里半(二六

               粁)

           十五日 鞍山站北方一・五粁螞駅屯着、行程約六里(二五粁)

           十六日 南沙河南方二・五粁前立山屯着、行程約三里(一二

               粁)

           十七日 遼陽西北方十四粁後方杆堡着、行程約七里半(三十

               粁)

           十八日 二十三日迄滞在 午前小雪

          二十四日 黒溝台南方約三粁蘇麻堡着、行程約五里半(二二粁)

          二十六日 迄滞在 午後六時出発烟台子南方畑地で工事を行う。

          二十七日 午前三時半宿舎に着く。午前四時十分、蕜菜河子南端

               に砲列を敷き午後四時四十分宿舎に帰る。

          二十八日 午後六時予定の陣地に着く。戦闘準備終了(以下略)

  二月二十八日   火曜日  晴れ

 こゝで我後備独立野戦砲兵第二大隊は比留間信良砲兵少佐を大隊長として第二軍の命令下に入り第八師団に属す事になった。そして午前一時蘇麻堡で次の命令を受けた。

 一、第三軍ハ二十七日正午頃予定ノ線ヲ占領シ二十八日更二前進スル筈師団ハ二十八

   日払暁攻撃ヲ開始シ得ルノ準備二アラントス。

 二、大隊ハ払暁何時ニテモ砲廠二集合シ得ル如ク諸準備ヲ完成シ置クベシ。

 又其の日午後八時次の命令を受けた。

 一、前面ノ敵状二付キテハ著シキ変化ナシ。秋山支隊ハ午後一時茨楡坨ヲ占領シ目下

   獁乕嶺子二向イテ前進中ナリ。師団ハ攻撃ノ姿勢二アリ。当隊ハ尓今、野戦砲兵

   第八聯隊長ノ令下二属セラル。

 二、大隊ハ只今ヨリ蕜菜河子二向ッテ前進シ同地二警急宿営ヲナシ直チニ肩墻ノ構築

   ヲ完成セントス。

 三、各中隊ハ第一、第二、第三中隊ノ順序ヲ以テ蕜菜河子二前進スベシ。中隊段列ハ

   一団トナリ大隊ノ後尾二追隋スベシ。

   大行李ハ所要ノ物ヲ除クノ外当地二残留セシム           以上

 この様な経過を経て我々は奉天西方の此の陣地に付き明日の戦闘を待つのみとなった。

この日右翼鴨緑江軍と左翼第三軍は前進を開始したのである。その為中央軍の一部の我砲兵隊は敵を牽制すべき任務を与えられ午前四時半頃から、滞在して居た黒溝台の南方約三千米の所に有る蘇家堡を出発し渾河の右岸蕜菜河子の南端で丁度先に歩兵が工事をした掩堡の跡を利用して砲列を敷き約五千米北方前面にある年魚泡という村を砲撃したのであった。然し弾丸は各中隊に五十発と制限され其の日は単に牽制的射撃であって敵を威嚇する程度のものであった。敵も我砲列の前方へ五、六十発砲撃してきたのみで砲撃演習程度のものであった。

 

 

 

※本ブログ記事には、現代社会においては不適切な表現や語句を含む場合があります。当時の時代背景を考慮し、文中の表現はそのままにしてあります事をご了承ください。

 

※本ブログの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。まとめサイト等への引用も厳禁致します。