明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第九章 ニューヨーク生活(1)

W君はブロードウエイの森村ブラザーズの近くのワシントンプレスにある英国人の婆さんが経営している下宿屋へ案内して呉れた。彼女の名前はミセス・チャザムといって五十才位のデブデブ肥った大きな人だった。(Mrs.Chatham 74 WASHINGTON PL., N.Y.)

この下宿屋は森村組代々の日本人が世話になる家で婆さんは、日本人の気質をよく知っていた。私は話も出来なかったがとても親切に日々の事等を手にとる様に教えてくれた。

室は二階の三畳位の表側の細長い窓のある部屋で、折り畳み式のベッドがあった。

早速鍵を一個渡して呉れた。之は入口用の物で帰った時は黙って自分の部屋へ入れる様になっている。食堂は地下室の薄暗い八畳位の部屋で、テーブルが二列に並べてあった。この食堂へは下宿人許りでなく近所の人も食事にきていた。学校の先生も居れば生徒もいた。三十才位のよく、しゃべる女性も来ていた。私が翌朝初めて降りて行くと、婆さんは皆の者を紹介して呉れた。握手をする人も只黙って黙礼をする人もいた。年増の女性と向かい会ってテーブルについたので、何時日本から来たのだとか、誰々を知っているとか誰それは、未だ壮健か等と話しかけるのだが先方の話す事は所々判るが一言も話す事が出来ず、顔は真っ赤になり脇の下からは冷汗がタラタラ流れてきた。がこんな事も始めの内丈で暫くすると話が出来なくても判った様な顔をして片言でも話が出来る様になってきた。そして一ヶ月過ぎ二ヶ月も経つと、買い物に出かけても少しも不自由を感じない様になってきた。

三、四ヶ月経った頃の事で下宿屋の婆さんとの対話で私の珍談中の珍談がある。

或日此処で厄介になっていて半年程前に帰国して名古屋の店に勤めていた水野という人が亡くなったという知らせがあった。兼ねて婆さんや食堂へ集まる人から彼の話がでて、皆もよく知っているので彼が亡くなった事を知らせてやろうと下宿へ帰って早速婆さんに、ミスター水野迄は良かったが死んだという英語が頭に浮かばない、折角知らせて共に彼を偲んで貰おうと思って急いで帰った甲斐も無く、ミスター水野、ミスター水野と繰り返す許りでこれでは意味が通うずる筈がない。そこで日本では永眠というから或は Long Sleep と言えば判るかも知れないと許り早速 Long Sleep と言った。婆さんは「イエス水野さんは永くここに居たが今は日本に・・・」こんな調子で私の言わんとする意味をこの様に解釈し彼の事を何か聞きたいのか、と尚私が何かを言い出すのをニコニコ笑って待っている。私は私で身体中の血が頭に上がり顔は真っ赤になり、こんな事なら黙っていればよかったと思ったが後の祭、だか折角言い出した事なので、此処で引き下がって終っては何にもならない。何とか知らせたいと色々考えた。そこで医者が脈を計る様な格好をして This is stop! とやった。すると婆さんは直ぐ Oh! Very sorry...Is he dead? と吃驚して、やっと意味が通じた。

私も私、婆さんも婆さんで、なかなか感が良い。蓋し私としては傑作であった。

然し翌日店でM君にこの話をした。するとこの話が店の日本人の間で大評判となって終った。

ついでにもう一つ、

其れは此の下宿での話である。食事の時、テーブルにはナプキンが一人に一枚宛置いてある、自分の椅子は決まってはいるものゝ、ナプキン丈は毎日変わっている。勿論綺麗に洗ってアイロンはかけてあるが、所々地が薄くなつていたり破れている物もあり、日本人の潔癖さというのか、何だか気持ちが悪い。何故外国人は自分の物を使わないのか、毎日同じ食堂で自分の席も決まって居り乍ら、自分の使うナプキン位自分の物を使えば良さそうな物だという様に考えた。それなら私が見本を示してやろうと、或日デパートへ行って一ダース買って来た。(一枚や二枚は売って呉れなかった)そして婆さんに二枚渡して片言混じりで「明日から私のナプキンは之れにして下さい、一枚は洗濯用の物です」と自分では充分意味が通じたと思っていた。

すると婆さんは「Thank you. Thank you.」と言って喜んで片付けて終った。

もう一度確かめようと口先迄色々単語が出てくるがうまく説明が出来ない。

まあ明日の朝になれば「Thank you.」の意味も判るだろうと、その儘にして翌朝のテーブルに着いた。あゝ何時もと変わらない。ナプキンは相変わらず以前の物と同じで破れている。

然し未だ判らない。夕食は御馳走が有るのだからその時に新しいのを出してくれるのであろうと思って店へ行き相変わらずM君にこの事を話した。M君は「それは駄目だ、婆さんは貰った物だと思って大切に片付けて終い決して出さないよ」と大笑いであった。

 私はそれでも 一縷の望を持って夕方下宿に帰り夕食のテーブルに付いた。けれども矢張りナプキンは元の儘だ。成程M君の言った通り来る日も、来る日も遂に新しいナプキンに出会う事は無かった。

こんな笑い話や失敗を重ね乍ら、次第に人にも馴れ土地の気風も判って来た。

 

 

 

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