第四章 京都下宿時代(3)
今では書生等という言葉は使わないが当時は学校の生徒でも書生さんと言った。そして決まって黒の紋付き羽織に小倉の袴で羽織の紐は白で二尺位(約六十糎)もあった。それを先の方で結び首に掛けて歩いていた。下駄は朴歯の太い鼻緒のついた桐の厚いものでゴロンゴロンと殊更、音を立てゝ得意がっていた。
此等の書生さん仲間では男色が流行して時々稚児さんの事で血を見る様な争いもあった。
特に九州地方の人々の間に多かった様である。私とは同級生のN君は、熊本の士族で剣道の達人で、よく画論を闘わせた一人であったが、御国柄この稚児さんの事に関しては熱心であった。
明治三十?年四月頃この宿へ一人の婦人が止宿させて呉れと訪れた。当時既に裏の二階に二十七、八才の看護婦さんが泊っていた。その人を頼って来たが不在なので女将と交渉していた。〇〇さんに既にお願みしてあるとの事で今度府立高等女学校へ入学する娘の世話を願いたい、との事だった。女将は何かあると私に相談するのが常だった。それで私は直ぐ出て行って、その人に会った。そして其の人が名古屋の人と聞いて懐かしい感じがしてならなかった。
二、三日経ってその婦人が黒の紋付きに古代紫の袴をはき高等女学校の正装をした一人の鼻筋の通った眼のパッチリした丸顔の十五、六才位の振り分け髪の少女を伴って来た。
そして私が名古屋だというので私に紹介した。
この少女は伊藤浜子と言い母の初子は十何年前に京都へ来て現在は自分で大宮辺りに看護婦会を経営し四、五人の弟子を置き自分も看護婦と産婆をしているが今度娘が通学する事になったが自宅からは道も遠く又家も人数が多く狭いので〇〇さんの室でお世話を願う事に〇〇さんにも話がしてあるから宜しく頼むとの事である。
この母の初子という婦人は四十そこそこの毛の濃い丸顔で目元は娘と瓜二つで、その娘を見れば誰が見ても親子という事は直ぐ判る。少し肥っているが名古屋生まれでもハッキリした口調で訛りも無く京都弁の優しい言葉使いであった。
それ以後は同郷の好誼で親子共に心安くなった。
娘を尋ねて来れば必ず私の部屋へ寄って話をして行く。娘も二、三ヶ月も経つと下宿にも馴れ皆とも懇意になった様だが何時も私の所へ許り来ては宿題を尋ねたり図画の加筆を頼まれた。
この少女から聞いた国許の伊藤一家の関係を記してみると。
名古屋市西区下長者町三丁目に「初祝」という老舗の酒屋がある。初子はそこの三人兄弟の長女で弟の慎三郎が家督を相続して家業を営んでいる。妹の悦子は分家して鍬次郎という人を養子に迎え大須観音の傍らに「初祝」の暖簾を分けて貰い本、支店の関係で酒屋を開いていた。
初子は早くから家を出て結婚したが間も無く夫と死別し浜子は父の顔を知らず母の手一つで育てられ本店や支店の家で小学校時代を過ごしたのであった。
その後初子は再婚して英子を生んだが又不縁となって夫には誠に縁が薄かった。
以来独身で看護婦の免許をとり今日に至っているとの事だった。
暑中休暇や冬休みには一緒に帰省した。本店、支店の人々とも親しくなり、その内に何となく将来に対する結ぼりが出来てきた。
私は未だ両親には何も話はしておらず、お互いに在学中でもあり且私の父は厳格で特に異性との関係は男女七才にして席を同じうせずとは言わない迄も平常厳しく言われて居たので、この事は只自分の胸に収め清い交際を続けていた。
私が一年志願で入営する事になってから浜子も下宿を出て学校の寄宿舎へ入り卒業迄そこに居た。
お互いに卒業後は袂を分かち私は東京へ浜子は京都の母の許に留まって京華社という広告取り扱い専門の会社の事務員になって勤めていた。
そこも一年足らずで辞めて名古屋へ帰り大須の祖母の元で厄介になっていた。
後に私が東京の森村組に勤務していた時にも時々頼って東京へ来た事もあったが私は三十才迄は結婚しないという堅い信念を持って勉強していたので結局は国許へ帰っていった。
そして明治三十六年四月の卒業と共に京都の下宿生活は終わった。
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