明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第九章 ニューヨーク生活(2)

友人達は「ホームシック」に罹らない様にと、日曜日には市中の見物や或は重役の家へ案内して呉れる等色々慰めて呉れた。地下の食堂とか、支那料理屋や時にはホテルの食堂等へも連れて行って呉れたり一日も早くニューヨークに馴れる様面倒を見て呉れた。

さて私の仕事と言えば勿論陶器の図案である。これを作るには大変な苦労が要る。

先輩は三人も居り且数年も当地に住んでいて当地の人情、風俗は充分判っている。

其の上毎年売れ行きの良い画柄とか、流行の色合い等を知っているので、私程の苦労はしない様である。私は何といっても今は見習いである。筆を握っても録な物はできない。

そこで毎日、毎日市中のデパート巡りで一日を過ごしていた。

デパートでは有名な「ジョンワナメーカー」とか「ギンベル・ブラザース」「メイシー」等という大きな店や三越位の店は至る所に有る。高級な店では「ティファニー」(この店では特に「ティファニーグラス」と言って千年以上砂に埋もれて変化したガラスを真似て作った特殊ガラス製品が有名である)とか「ビー・ウートマン」等は立派な店だ。

 其の他色々の店のウインドーを見ては図案になりそうな色彩とか図柄を頭に入れて帰る。又時にはヨーロッパから来た見本等を買い集めては、日本へ送るのだ。

街を歩いていても、婦人の服装や、今流行の物が何時まで続くのか、そして来年はどの様に変わるのか、という様な事を考えこれ等を陶器図案にとり入れるのだ。

一年何百万ドルという商売の基礎を作る我々図案部員は重大な責任を持っている。

以上の様に見聞した物は図案の画紙となり、文章となり絶えず日本へ送られ、それぞれ見本が作られるのである。そしてその見本はニューヨークへ送られて来て、それに依り注文を受け次年の商売をする事になる。

 この様に書けば簡単な様であるが図案の画紙になる迄には人知れぬ苦労がある。

デパートへ行って珍しい物が有るので其の前へ立って見ているとダスターガール(掃除婦)が来てバタバタとハタキをかける。品物を手に取って見ていると、手を触れないで呉れと言う。又品物を買って店迄届けて呉れと言うと、今忙しいから一週間程待って貰わなければ、配達は出来ない等と、意地悪い事を言われる事もある。

日本人特に我々は図案を盗みに来ているのだと、いう様に思われていたので、嫌われていた様だ。

「ビー・ウートマン」という店等では生地でも、リボンの様な物でも一ヤールや二ヤール位の端切れ等は売って呉れなかった。(ヤール=ヤードの訛り約〇・九九米)「お前達はこの模様で日本の製品を作るのだろう。之等は高い金を出してヨーロッパから仕入れた物だ、そう易々とお前等に売る事はできない」と言ってサッサと向こうへ行って終う。

こういう様な事は再々で、実に癪に障るけれど致し方がない。

又ボストンへも、ワシントンへも、フィラデルフィアへも、イースター前とかクリスマスの前とかには、必ずそれ等の都市へニューヨーク同様何かを探しに行った。

 仕事は面白い、誰にも干渉されず自分の考え通りに進んで行けばよい。外出しない時には図案部の一隅で絵筆を握っている。M君は毎年一回十一月頃、一部の図案を持って帰国する。K君は未だ帰った事が無い。頭が良い男だ、片足が少し短かった。

土曜日は半日で給料日だ。そして夏は二週間の休暇がある。我々は交代で避暑地へ出かける。一年を通して一番楽しい時だ。私はニューヨークから百十四マイル(約百八十粁)離れた所にあるレーク・ミネワスカという山の上の湖水や、レーク・ジヨージ等という所で夏を過ごした事がある。その他テニスや海水浴等遊ぶ時間は充分有った。アメリカ人はよく働きよく遊べという主義だ。

 

 

 

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