明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第一章 小梅村腕白時代(4)

又母校の面影を明治四十一年五月二十四日発行の中和温故会々報第三号へ寄稿した。その文章の一部を記載して再び当時の記憶を辿って見よう。

◯母校の面影

僕の記憶— — — —十八年前、母校を遠去かってから、常に無邪気な小さな胸に印せられていた学校、その腕白時代、即ち僕の「ムスビに豆か!!」時代の学校を今記憶を辿って、再現してみると次の様だ。

然し之は旧い記憶に過ぎないのと改築もされたので現在とは異なっているが、その差異を比較して見るのも面白いのではないだろうか。

校舎 — — —平屋で位置も全く今日とは異なって居た。山字形で南面して建てられてあった様だ。

表門 — — —石の一間程(約一・八米)の橋を渡って鉄の立派な門を入ると、これが表門で左には五、六本の雑木が茂っていた。それから数十歩行くと、入江先生(初代校長)の碑が青や黒の不規則な石で一間位の高さに積み上げられてあった。その碑面からは亡き先生の面影が偲ばれた。積み上げられた石の間々に、初夏の頃には躑躅(つつじ)が美しく咲いていた。すぐ後が瓢箪池で金魚も泳いでいた。又蛙もよく鳴いていた。冬に氷が張った時その上へ草履や石を投げたりして、只意味も無く面白がっていたものだ。時には金魚の干物も出来上った事もあった。入江先生の碑の斜に百日紅さるすべり)の木があって、花の頃には常に諸先生の小言の材料を作っていた。池に沿って蟬の鳴く木の間を西の方へ行くとダラダラ坂の登りで笠を伏せたような小高い所に三抱え位の黐(もち)の木が有り何時も青々と茂っていて、すぐ前の職員室の日覆いになっていた。この木を境に運動場が男女に分かれていて西が男子の方で南北半丁余りもあった様に覚えている。大島先生とよく「フットボール」をして遊んだものだ。先生は覚えて居られるだろうか!この運動場の北側が高等科の室で当時増築された様に覚えている。

 その右角のヒョロヒョロの合歓(ねむ)の木の下に跳釣瓶(はねつるべ)の井戸があった。その傍が小使室で小使さんがニコニコしてよく体操等を見ていたのが、懐かしく目に浮かぶ。

玄関 — — —高等科の室にそって廊下を東へ行くと道は真っ直に裏門に通じ左の方が便所で右の方が下駄箱、其の向いに傘置場があった。下駄箱を右に廻ると玄関だ。二、三段の階段を上ると職員室になり、左へ行くと教室が東方に延びている。学校中で最も古い建物で廊下には、水色に塗った手すりが着いていた。中和小学校の代表的な建物である。中央部に「中和校」と記された額が掛かっていた様だ。この教室は三つに区切られていてら僕等は玄関の傍らの教室だった。

諸君!!君等は悪戯をして叱られ放課後残された事は無かったか?

 人一倍腕白な僕も之に漏れる事は有り得ない。ある日遂にこの刑にあったのだ。

流石の僕も是には泣かずに居られなかった。家は小梅村、時は土曜日、例の「ムスビに豆」は持っていない。腹は減るし友達は皆帰って誰もいない。味方になる小使さんも来ない。こうなると子供心に益々心細くなり悲しくなって只もう泣くばかりである。暫くするとフト或悪知恵が頭をかすめた。裏のガラス窓である。さてこの窓を如何に利用したか、、、、、?

 扨てその廊下の終点!の所から職員室に面して南の方へ凹字形をした教室があった様に思う。その室を横切って東南の隅に有るドアーを開けると(表門を入った所)右側に百日紅さるすべり)の木のある傍らの新しい綺麗な四角い校舎の前に出る。

 この庭を左へ行くと数十歩で裏門に出る。そこを又古い校舎に沿って左へ行くと先の下駄箱の所に出る。その道の右側には幼稚園と裁縫室があって幼稚園では可愛らしい幼児が豆で作った弥次郎兵衛や、麦藁細工の風車等を持って帰るのを羨ましそうに見ていたのも青鼻垂らしていた時代で、もう十八年前の昔となった。この幼稚園の裏門が生徒の通用門となっていて黒塗りの冠木門があった様に記憶している。     以下略

 

 

 

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