明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第二章 京都伏見時代(1)

先に京都に行っていた父から東京を引き払って京都へ来るように連絡があったので母一人で荷物を整理して住み慣れた小梅村を後に親子四人は一刻も早く父に会いたいと新橋駅を発ったのは明治二十三年秋も末頃の十月ではなかったかと記憶している。

汽車というものに今日初めて乗った我々兄弟は、只々珍しく汽笛と共に新橋を発車してからは、窓から首を出して次から次へ変る周囲の景色にあゝ山だ!川だ!海だ!トンネルだ!と、その度毎に大きな声を出しては、車中の人を驚ろかせたり、今迄口にした事もない駅弁に箸を取る間も、もどかしく餓鬼のように飛びついて母に渋面を作らせた。

ゴトンゴトンと駅毎に停車して行くこの旅行中でも、小梅村でのあの苦労は果して京都の父の収入で解消されるだろうか、母は子供等の将来を考えると、親として益々責任が重くなって来ている今日、これからの生活をどんなに案じていた事で有ろう。これらの想いに関係無く汽車は西へ西へと走っている。

富士山が見えるのを、楽しみにしていたので、何回も何回も母に尋ねて見た。けれども残念乍ら低い雲に遮ぎられて裾野らしい所が見えた丈けだった。ポツポツ降り出した雨は静岡を過ぎた頃より本降りとなった。やがて汽車は大井川近くで停車した。

この辺り一体は数日前から大井川の増水で、付近の堤防が決壊して線路が流され、相当長い距離の間不通となったので此処で下車し次の駅迄は徒歩で行かなければならないとの事であった。我々は仕方なく雨の中を急いで人々と共に遅れまいと手に手をとって走った。

乗り換えた汽車は雨中を走り名古屋、米原を通過した。日はとうに暮れ車内のランプも何と無く、もの淋しげだ。朝から一日中汽車の中で、飛び回る事も出来なかった私達も流石、夜になると退屈でもあり疲れも出たのかソロソロ眠くなった。弟達は他愛もなく重なりあって寝てしまった。九時頃だと思ったが一つの淋しい駅に着いた。

雨は未だ降っていた。駅員は「やましなー、やましなー」と駅名を告げていた。

母は急に「この駅で降りるのですよ」と私達を、せきたてゝ棚の荷物を下ろし三郎を背負い二人の手をとって、プラットホームに降りたものゝ暗さは暗し、どっちへ行って良いのか、マゴマゴして佇んで居ると「曽我さんの奥さんではありませんか」と突然一人の男が声をかけてきた。そして「直ぐその汽車に乗って下さい。此処で降りるのではありません。次の稲荷という駅です。サア早く早く坊ちゃんの方は私が、、、、」と汽車に押し上げられた。

訳も判らず無我夢中で我々は再び元の汽車に乗った。聞けばその人は中島広という人で、父の身の周りの世話をしていて呉れる人だった。

結局父が降りる駅を間違えて知らせていた事が判った。もしこの人に会わなかったら、私達はどうなったであろう。当時山科駅と言えば東海道で一番長い逢坂山トンネルを出た田舎の田畑の中に在る小さな駅で、近くに旅館が在る様な所ではない。唯忠臣蔵で名高い大石内蔵之助の妾宅であった家がある村であった。

やがて三十分位で稲荷駅へ着き、やっと父の泊っている駅前の万岩楼という旅館に落ち着いた。これが我々が京都へ着いた最初の第一歩であった。

 

 

 

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