明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第一章 小梅村腕白時代(3)

小梅村の腕白小僧

(中和小学校々友会発行 会報 昭和九年九月創立満六十年記念号「昭和九年二月二日稿」自稿中の一節)

 

 私は明治二十三年東京を去って四十有余年、

名古屋駅金城の下で六人の子供の親として貿易玩具製造に従事しております。

顧みれば四十有余年前、鼻垂れの腕白小僧は「ムスビに豆」の竹包みの弁当を、破れ風呂敷に包んで本所曳舟の小梅村から通学したのでした。三つ目通りの玄徳稲荷の縁日には、「のぞき眼鏡」を覗いたり、飴玉を頬張ったり風船玉を膨らませたりして喜んでいた。

 法恩寺橋付近の瓦製造所の窯で、青葉を燻すのを見ていては遅刻もした。押上の土手で犬の喧嘩に石を投げて遊んでいて道草もした。けれども雨の日も風の日も子供には遠かった道も何となく引き付けられる様な気持ちで休みもしないで毎日通っていた。

 大島先生は尤っとも深く印象に残っている先生の一人だ。近藤校長(二代、四代校長)は其の頃怖い先生だと思っていた。林庄一君は常に首席で河原三郎(百木)君等も優等生であった。

それに引き替え私は決して成績の良い方ではなかった。けれども常に星雲の志は棚引いていた。

女子の方では浅梅さだ子、村上てふ子さんと言う人も常に成績が良かった。

大島先生はその両女子の間に私を入れたら少しは成績も良くなるのではないかとの温情から席を変えられた事もあった。其の頃校庭に池があり蛙が鳴いていた。又赤トンボもよく飛んできた。放課時間にはこの池の辺りで悪戯をしてはよく叱られた。入江先生(初代校長)の碑に登っては小言を言われ、隠れん坊をして小使室へ潜りこんでは小使さんに怒鳴られた。教室に立たされたり放課後残されては泣いた。

林君の家は石鹸製造業で学校の近くにあったので、よく遊びに行き御馳走になった事も、河原君(河原君と私は親戚関係)の家に泊まった事も大島先生が小梅の宅へ来られて夏の一夜蛍狩をされた事も、四、五人の友達と秋葉原へバッタ採りに行った事も忘れる事の出来ない私の生涯の一ページであった。

 初等科一級から専業科となり三年級の教育を受けていた明治二十三年の秋、父が京都へ移住する事となったので退学して懐かしい母校を去った。(以下略)

 

 

 

※本ブログ記事には、現代社会においては不適切な表現や語句を含む場合があります。当時の時代背景を考慮し、文中の表現はそのままにしてあります事をご了承ください。

 

※本ブログの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。まとめサイト等への引用も厳禁致します。