明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第一章 小梅村腕白時代(2)

家のすぐ前には曳舟川(昭和30年埋立てられた)が流れ、裏の庭には古い池があった。腕白小僧の私は川で遊んだり池で魚を釣ったりしたものだ。

桜が咲けば向島へ出かけ、隅田川でボートレースがあるといえば、それを見に行った。

牛島神社(向島14)や三廻神社(向島2)のお祭礼には、人に揉まれながら家を忘れて迄お神楽に興じていた。日曜日にはよく弟と一緒に浅草の観音様へ出かけた。仲店の玩具屋に父の知り合いが居たのと、其所へ立ち寄れば玩具の一つでも貰えるので楽しみにしていた。

 一方奥山では永井源水の独楽回しとか、六尺(約1.8米)もあろうかという刀を両手を縛ったまゝ、スラリと抜く早業に感心し、握り拳の中に赤、青、白の砂を握り絵や字を自由自在に描きわける砂絵、の技に驚きの眼を見張り、小箱の中へ各色の砂をザラザラと入れ蓋をして、口上たっぷり暫くして蓋を開けると中には綺麗な絵が描けているのを見ては幼な心に、その不思議が解けず一時間も二時間もその人垣の周りで佇んでいた。

観音様の境内には色々な香具師(やし)が人を集めていた。がまの油売りは効能を試す為に自分の腕を切ってみせてその効き目を宣伝していたり、手品師は卵を目の前で雛にして箱から飛び出させたり、口から次々と卵を五つも六つも吐き出して感心させたり、あちら、こちらでは、人々が輪になって物珍しそうに、それ等を見物していた。僅か一銭か二銭のお小遣いで花屋敷や奥山で一日を過ごし、ついつい遅く帰っては母に心配をかけていた。けれども幼い私には香具師のする事が不思議で不思議でたまらなかった。

 其頃長い竹の鞭を持って独特の台詞(せりふ)で八百屋お七とか佐倉宗五郎一代記等を絵にして五寸位(20糎)の丸い窓から覗いて見せる現在の紙芝居の様な「のぞき眼鏡」という物もあった。観音様の境内のそれ等は私の唯一の楽しみでもあり、一種の精神的な修養場でもあった。近所の子供等には何時も餓鬼大将で中々負けては居なかった。その為其の子供等の親がよく家へ怒鳴り込んで来た事もあった。そんな時は何時も裏の方へ隠れ舌を出していたものだ。

この腕白小僧も学校へは、雨の日も風の日も毎朝七時頃には家を出て一里余りある(約4粁)本所林町三丁目の中和小学校へ、「ムスビに豆」(握り飯と、お菜は豌豆を醤油で煮しめた物で毎日同じなので皆からあだ名を付けられていた)の弁当を持って通い休む事は殆どなかった。

 

 

 

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