明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第八章 渡米(横浜出帆からニューヨーク迄) (2)

サンフランシスコ市からシカゴを経てニューヨーク市へ着く迄の旅日記を記してみると。

 七月三日午前十時二十分 サンフランシスコの対岸オークランドから南太平洋鉄道会社(SOUTHERN PACIFIC R.R)の一等寝台車(PULLMAN CAR)の人となってこの駅を離れた。

寝台車といっても日本では見る事も出来ない美しい車で日本の物は之に較らべれば玩具の様だ。そして車内の清潔な事、又室内では禁煙なのでとても気持ちがよい。黒人のボーイが一人づつ付いている。

列車の速度は中々速い。左右の果樹園、農作地、牧場等を眺めながら、その雄大さに驚いて時間の経つのを忘れている内に列車はベニシヤ(BENECIA)という渡し場の駅に着いた。

暫くすると列車は乗客を乗せた儘三つに分けられ渡船の甲板に乗せられ湾を横切り対岸のレールの上を又走りだした。サクラメント(SACRAMENTO)平原を過ぎロッキー山脈のシェラネバダの峻険な山道にかゝた。この付近の渓谷の木は皆杉の様な樹木ばかりで冬は雪に覆われて終うので雑草が少なく丁度焼け跡の様である。奇岩怪石、突忽と現われる山の姿は皆一幅の絵にならない物はない。

湖の水は蒼く山又緑で海抜七千十二呎(二千三百メートル)の頂上を越えた頃は陽も西山に没し夕闇に包まれた空に余光が僅かに残る午後七時半頃だった。ボーイがベッドを作って呉れて寝に着いたのは十時頃だったが中々寝付かれなかった。

  七月四日

 朝八時頃起きた。列車は一望数千里の広い平原を走っている。人家も稀で所々十数軒の部落が有る許りだ。停車場付近には鉄道工夫が古い客車を利用して住んでいるのが見受けられる。

食事は値段も高いが日本の食堂車の看板丈を自慢にしている店とは較べ物にならない。

午後三時頃有名な二十三哩(三十七粁)の長橋ソルトレークを通過した。この湖の水は塩分濃度が高いので其の名がついている。

そこを過ぎてオグデン(OGDEN)という停車場へ着いた。何処を見ても外国人許りで、何となく心寂しい。

  七月五日

 今日はアメリカインディアンの姿があちらこちらに見える荒野を又は小山の続く平野を走ってオマハ(OMAHA)という大都会の停車場へ着き十五分停車した。こゝで食堂車を交換して発車、シカゴへ着いたのは六日の午前十時頃であった。着いた後ひと先づホテル(ラ・サール)へ落ち着いた。

アメリカインディアンは一千四百九十二年、コロンブスが米大陸を発見以前よりこの地に住んでいたが多くの欧州人の移住により、西北部に追いこまれ人口も年毎に減少し現在では二十五万人になって終ったので今では一定の居留地を設け保護をしているとの事である。

 シカゴ市へ着いて初めて建築の立派な事と百貨店等の宏大なのに驚いた。賑やかな反面裏町の汚い事には呆れた。

こゝで有名な商店はマーシャル・フィールド及びボストンストアーといってニューヨークでも見られない大規模な百貨店でその繁栄振りは流石アメリカだと思った。

兎に角、時即ち金という国なので往来する人達は皆忙しそうで他人を顧みる暇も無い様で誠に騒々しい街だ。然し誰を見ても身体も大きく堂々としている。服装も立派で皆大金持ちの様に見える。

 街を少し離れた所にストックヤードという屠殺場が有る。牛や馬がこゝへ入ってから一時間もたゝない内に缶詰になって車で運搬され市民の口に入るのだ。こゝを見学出来る馬車や自動車が有るそうだ。ミシガンレーク湖畔は実に美しい。博物館もあった。

 こゝで帽子屋での笑話をひとつ

日本で大枚一円三十五銭で買ってきた麦稈帽をアメリカ式の夫れに代えるべく、有名な帽子店バーネスへM君と共に入った。M君は店員に何か話をしていたが店員はオーライと許り私を呼んでガチャガチャと重い鉄兜の様な物を頭に覆せた。私は何をされるのか判らないので、内心ビクビクしていた。そのうち頭の周りを締め付ける様に感じた。益々変だ。アメリカではこうして頭の形を変えるのではないか、アメリカという所はとんでもない事をするものだ。帽子を買うのに頭の形を変えなければならないという事は誠に末恐ろしい国だ、これでは一年も滞在する内に頭から足の先迄形が変わり、純アメリカ人のスタイルになるのではあるまいか、それならそれで良い、背中を丸め、足の曲がった、日本人の不格好な体を直して呉れるなら、少し痛いのも辛抱して良いではないか、それならそれでM君は始めに説明して呉れゝば良いのにと少し憤慨もした。

 M君はM君で私が可笑しな顔をしているのを見てクスクス笑っていた。

暫くすると再びガチャンと音がしてこれで宜しいと言って、これを外した。私は頭の周りを撫でてみたが別に異常はなかった。後で判ったが之は頭の形を変えるのではなく、この兜の様な機械は鉄製の伸縮自在な物で一枚の紙へ頭の寸法が点線で描かれる様に出来ていて、寸法を計る機械であった。その寸法で帽子の形を直して呉れるのだ。三ドル払ってホットした。成程頭にきっちり合って気持ちが良い。店を出てM君と顔を見合わせ思わずふきだした。

M君はその後何年経ってもこの話をして笑っていた。

 

 

 

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