明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十三章 (合)広進商会(1)

拝啓 薫風緑樹の候益々御安泰之段奉慶賀候

陳者小生儀永年森村商事株式会社及び日本陶器株式会社に在勤中は公私共に一方ならず御懇情を辱うし、誠に有難く奉感謝候、然る所今般都合に依り、四月三十日限りを以て退社致し、更に各重役諸氏の御賛助と、各工場主任者との後援に基き、茲に同僚大磯文一氏と共に、日本陶器株式会社、東洋陶器株式会社内地販売部なる合資会社、日東陶器商会の代理部として、合名会社広進商会を組織し、専ら以上両会社の製品にして、広告及びスーベニヤ(各名所、旧蹟地に於ける土産品の類)等を応用したる一切の陶磁器並に容器類、外に同上の目的に依る雑貨類及刷子をも取り扱い、一般需要者の求めに応じ内地に於ける、営業を開始仕る事と相成申候間、何卒倍旧の御愛顧と御援助とを賜り度奉希上候、先は不敢取御通知旁々御挨拶迄如斯に御座候

                                    敬白

    大正十一年五月一日                   曽 我 年 雄

                名古屋市中区大阪町二丁目五番地(南武平町通り)

                   (自宅 名古屋市東区長堀町三丁目三番地)

                          合名会社  広 進 商 会

                              電話 東四五〇三番

この様な挨拶状を日本陶器(株)の取引先や各地の百貨店へ発送した。

 この広進商会の組織は始め大磯文一氏と私との二人で資本金一万円で合名会社としたが将来の金融の事を考え大磯君の友人で大阪の眼鏡商で資産家の大島佐吉という人に資本を出させ三名の合資は金一万五千円となり、兎も角大阪町に店舗を開いた。然し計画と実行は仲々思う様に行かない物である。

始めは何が何でも挨拶状の通りに進まなければと各方面へ働きかけ日東商会でも相当の犠牲を払って見本の製作に援助もし材料も与えてくれた。その結果は二、三ケ月たった後少しは現われてきた。けれども元来が特殊の製品であり、まして広告に使う物は出来る丈安くなければならず、土産品として各名所等で売る物は粗製乱造の安い生地でも事が足りる。記念品でも価格に制限がある。日本陶器の様な高級品では思った様に注文はとれない。特殊の人が少しづつ注文する位で、とても大量の注文は取れない。始めの計画では必ず相当の注文で面白い商売になると思っていたが、実際となると思い通りには行かず瀬戸製の様な安物で、場合によっては二番、三番生地を使っても、安く売れる物でなければならないという事が判ってきた。

然し折角看板をあげて店を開いたからには、何処迄も努力して見なければならない。

始めから思った通りに易々と商売ができたら、蔵も建つし金も残って仕方がない。資金は未だ十分にある。やる所迄やって駄目なら又その時は考える事にして、二人は夜を日についで一層頑張り各会社等を廻り見本による注文を取る事に励んだ。その結果は相当実ったが良い事は永続きはしないものだ。

 

 

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