明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十三章 (合)広進商会(2)

記念品や広告の様の物は時期と日時の制限があり又数量と形でも日本陶器にストックの有る物と新たに作らなければならない品があり、作るには相当の数と日数がかかり仲々注文通りの日に間に合わない事や、少しづつの注文でも合わせるとストックの数が足りなくなり不足分は新しく作らなければならない。新らしく作るとなると前述の通り納期に間に合わない。こういう事が重なって折角の注文にも納める事が出来なくなり、先方に迷惑をかける。この様な状態で仲々思う様に商売ができない。それでも一年は過ぎた。然し納入不能やその他で嫌気がさしてきて商売替えをしなければ、ならない様になって終った。

之よれり先今迄の商売では先の見通しが立たないので、他の方面に少しづつ手を出して準備をしていた。というのは名古屋の木製玩具は全国的に販売されていて相当面白い物が出来ていた。殊に森田という製造家は質が良いので知られていた。

 それでこの方面に向って見本を取り寄せ地方の玩具卸商や小売店へ直接取り引きを初めて見たところ、思ったより多額の注文もあり新しい見本では殊に利益が多く又製造も容易で早速間に合い納入も順調であった。其の結果この方面で広進商会の名も人に知られる様になってきた。

その内に瀬戸の山城柳平商店から陶器玩具を仕入れ東京からは永峰セルロイド玩具(株)の製品で他の卸店で扱っていない(以前、森村時代に私の図案で作らせた)四季の西洋人形を厚板の生地で特別に作らせて「ハッピードール」と名づけ各都市の百貨店や高級玩具店へ卸売をした所、大評判で注文が殺到した。これに加えて今までのセルロイド玩具の色彩に大改良をして広進商会独特の単色として品質を高め他に追従を許さない高級品を売りだした。

又日本陶器の姉妹会社で日本玩具(株)(この会社は森村組が資本金二十万円で日本陶器(株)の構内に設立され山地寅之助氏が社長で技師を荒木彦造氏が担当していた。そして欧州戦争当時ドイツ式眠り人形がドイツからアメリカへの輸出が止ったので之を機会に森村組として、この会社を設立し専ら是等の人形を作りアメリカへ輸出していた)の製品であったドイツ式眠り人形が平和回復後ドイツ製品に押され僅か三年で会社解散の止むなきに至り同人形のストックの販売を工場監督であった小中源一氏が一任され日東商会で内地へ売り捌いていた。

之を日東商会の販売店以外の店へ卸す事になり、こゝで広進商会は純然たる玩具卸商となった。

 そして主な販売先は東京では三越を始め白木屋高島屋松屋等、大阪ではそれらの他大丸、松坂屋等遠くは北海道の今井呉服店及び朝鮮、満州大連、台湾等の各地に及び、内地は殆んど九州の果迄も月に一回又は隔月に売子数名を送り販売にあたらせた。時には大磯君も私も見本のトランクを持って旅行し注文を取って来る事もあった。

 

 

※本ブログ記事には、現代社会においては不適切な表現や語句を含む場合があります。当時の時代背景を考慮し、文中の表現はそのままにしてあります事をご了承ください。


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第十三章 (合)広進商会(1)

拝啓 薫風緑樹の候益々御安泰之段奉慶賀候

陳者小生儀永年森村商事株式会社及び日本陶器株式会社に在勤中は公私共に一方ならず御懇情を辱うし、誠に有難く奉感謝候、然る所今般都合に依り、四月三十日限りを以て退社致し、更に各重役諸氏の御賛助と、各工場主任者との後援に基き、茲に同僚大磯文一氏と共に、日本陶器株式会社、東洋陶器株式会社内地販売部なる合資会社、日東陶器商会の代理部として、合名会社広進商会を組織し、専ら以上両会社の製品にして、広告及びスーベニヤ(各名所、旧蹟地に於ける土産品の類)等を応用したる一切の陶磁器並に容器類、外に同上の目的に依る雑貨類及刷子をも取り扱い、一般需要者の求めに応じ内地に於ける、営業を開始仕る事と相成申候間、何卒倍旧の御愛顧と御援助とを賜り度奉希上候、先は不敢取御通知旁々御挨拶迄如斯に御座候

                                    敬白

    大正十一年五月一日                   曽 我 年 雄

                名古屋市中区大阪町二丁目五番地(南武平町通り)

                   (自宅 名古屋市東区長堀町三丁目三番地)

                          合名会社  広 進 商 会

                              電話 東四五〇三番

この様な挨拶状を日本陶器(株)の取引先や各地の百貨店へ発送した。

 この広進商会の組織は始め大磯文一氏と私との二人で資本金一万円で合名会社としたが将来の金融の事を考え大磯君の友人で大阪の眼鏡商で資産家の大島佐吉という人に資本を出させ三名の合資は金一万五千円となり、兎も角大阪町に店舗を開いた。然し計画と実行は仲々思う様に行かない物である。

始めは何が何でも挨拶状の通りに進まなければと各方面へ働きかけ日東商会でも相当の犠牲を払って見本の製作に援助もし材料も与えてくれた。その結果は二、三ケ月たった後少しは現われてきた。けれども元来が特殊の製品であり、まして広告に使う物は出来る丈安くなければならず、土産品として各名所等で売る物は粗製乱造の安い生地でも事が足りる。記念品でも価格に制限がある。日本陶器の様な高級品では思った様に注文はとれない。特殊の人が少しづつ注文する位で、とても大量の注文は取れない。始めの計画では必ず相当の注文で面白い商売になると思っていたが、実際となると思い通りには行かず瀬戸製の様な安物で、場合によっては二番、三番生地を使っても、安く売れる物でなければならないという事が判ってきた。

然し折角看板をあげて店を開いたからには、何処迄も努力して見なければならない。

始めから思った通りに易々と商売ができたら、蔵も建つし金も残って仕方がない。資金は未だ十分にある。やる所迄やって駄目なら又その時は考える事にして、二人は夜を日についで一層頑張り各会社等を廻り見本による注文を取る事に励んだ。その結果は相当実ったが良い事は永続きはしないものだ。

 

 

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第十二章 ドイツ行から帰国迄(5)

香港に着いたのは二十九日だったと思う。そこの傾斜地に建てられた住宅の夜間の光の美しさは有名である。船は段々日本海に近くなった。上海に寄航してから冬服に着替えたり荷物の整理をする。四十余日の航海も終り数日後には長崎に着くのだ。

船中では「さよならパーティー」の話や帰国後の予定を考えたり国へ安着の電報を打つ等で皆々多忙を極めている。この航海ではインド洋は相当荒れると聞いていたが毎日静かな平穏な航海で五十日近い船中の生活ではあったが、こんな楽しい別天地の様な生活なら何日でも乗っていたいと思った程である。大正十年二月十一日無事神戸へ入港、戸毎に翻る日章旗、今日は私の四十二回目の誕生日だ。同十六日名古屋へ帰る。

  欧州旅行費用 自大正九年十一月十三日  至大正十年二月十一日

 〇アメリカでの領事諸証明費用ーーーーーーー$    三.〇〇(    六円)

 〇アメリカ、イギリス間汽船運賃ーーーーーー$  二〇五.〇〇(  四一〇円)

 〇同船中費用ーーーーーーーーーーーーーーー$   五〇.〇〇(  一〇〇円)

 〇欧州各地宿泊費及び食事代ーーーーーーーー$  三四二.七三(  六八五円)

 〇同右雑費ーーーーーーーーーーーーーーーー$  一八一.八二(  三六四円)

 〇同右鉄道運賃及び交通費ーーーーーーーーー$  一五一.四四(  三〇三円)

 〇フランス日本間汽船運賃ーーーーーーーーー$  三五〇.〇〇(  七〇〇円)

 〇同上船中費用ーーーーーーーーーーーーーー$  一二〇.〇〇(  二四〇円)

     合計ーーーーーーーーーーーーーーー$一、四〇三.九九(二、八〇八円)

この他給料及び見本買い入れその他

 〇給料 大正九年十一月二十七日ー同十年二月十一日

                      $  六七五.〇〇(一、三五〇円)

 〇見本買い入れ費ーーーーーーーーーーーーー$  二二七.七五(  四五〇円)

 〇日本での見本の税金及び陸揚費ーーーーーー$   四七.四三(   九五円)

     合計ーーーーーーーーーーーーーーー$  九五〇.一八(一、九〇〇円)

     累計ーーーーーーーーーーーーーーー$二、三五四.一七(四、七〇八円)

 *参考 (百円=四八~四九ドル、一ドル=約二円 大正元年~十年頃)

  当時の物価の一例   大正八~十年頃

  白米(十瓩)     三円四銭

  乾海苔(一帖十枚)   二十銭

  葉書         一銭五厘

  そば(もり、かけ)  八~十銭

  並塩(一瓩)     八~九銭

  封書           三銭

  牛肉(中 百瓦)   二十一銭

  味噌(上一瓩)  二十八~九銭

  電話料金         五銭

  豆腐(一丁百匁以上)   五銭

  砂糖(白一瓩)     五十銭

  市電料金         七銭

 

 

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第十二章 ドイツ行から帰国迄(4)

ベルリンの宿では英国人のモリソンという日本語をよく話せる人が旅行者の世話を大変よくしてくれた。官庁の手続きや列車の切符迄も買って呉れる。行く先々には便利な人がいてくれるものだ。言葉が判らなくても心配はない。

寝台車でベルリンを離れた。途中ベルギーとの国境で旅券を調べられ翌朝パリーへ着いた。

パリーへ戻ったのは十二月二十二日で再び諏訪ホテルの人となった。月末に出港する船で帰国する人がボツボツ集まって来て、このホテルの仲間になった。その内の一人にアメリカのカーネギー水産研究所で魚の脳髄を永年研究していた東北大学の教授で畑井新喜司という人と知合になった。この先生とは帰国後も音信を続けていた。(後大正十四年博士となりナマズ地震との関係を研究発表された)

パリー滞在中は日本へ帰る準備で毎日忙しい日を送って居り乍らオペラへは二晩も出かけた。

十二月二十八日 パリーを出発しマルセーユ港に向った。マルセーユは地中海の沿岸にあって東洋との貿易はこの国第一の貿易港である。こゝではグランドホテルに泊った。

こゝは貿易港である丈に船の出入りは頻繁で流石フランス第一と言われるだけに山積みされた積み荷と多くの倉庫がならんでいる。街は港街なのでそれ程綺麗ではないが小山の上にはノートルダム寺院がありケーブルカーが運行されている。他の大都市を見ているので驚く程の物はない。只こゝで畑井先生に是非試食して見よと言われてチュニカタ(ウニに似ている)を生で食べた。栗の毬(イガ)の様な形でそれを破ってマッチの先位しか無い黄色の身を取り出して舌の上で舐める様にして食べるのだが先生はこんなうまい物は無いと言って居られたが、私はそれ程までには思わなかった。海岸なので魚は色々売っていた。

 正月元旦を加島丸船上で迎え三日いよいよ出港する事となった。さらばヨーロッパ!!

一日一日、日本へ近づくのだ。冬の海は風寒く然し波は静かだった。数日間の地中海の航海の後ポートサイドへ着いた。此処で半日を過ごし、之から愈スエズ運河に向かう。運河に入ると船は畳の上を滑る様に少しの揺れもなく遅々と進む。所々ダムがあって船の航行を待っている。両岸は見渡す限りの平原で褐色の不毛の地が多く山々は遠く紫色に霞んで気温は春の様だ。時々駱駝の群れを見る位で風景は特に変化はない。河幅は左右に手が届くかと思われる様な狭い所もあるが水は清らかだ。一日一晩かかり翌朝スエズを過ぎ紅海へ入り通常の速力に戻り一路日本へ向う。一月二十日セイロン島のコロンボへ寄航して此処で夏服に着替え本場のカレーを辛さに汗を出し乍ら食べた。スコールの涼味は椰子の葉風と共に暑さを忘れさせてくれる。ヘルメットや籐のステッキを買った。街の或る寺院を見学したが僧の姿は仏画の羅漢その物で耳環が肩まで垂れている。其の付近ではコブラを背にした仏像を売っている。この他毛彫りの金属製の小箱や宝石を売っている店が多い。一月二十六日 シンガポール、此処で森村市左衛門氏系統で経営している南亜公司を訪ねてゴム園を見学した。又植物園も案内して貰った。南洋の珍果「ドリアン」や「パパイヤ」等も試食した。特に椰子の実を土人に取らせてその水を御馳走になった。此処ではインド更紗やシヤム製の絨毯を至る所で売っている。船客は大抵土産に二、三枚は買って来た。

 

 


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第十二章 ドイツ行から帰国迄(3)

ホテルは何と言っても外国からの観光客や商人等で賑っている。物資も相当備えてあるし、それ程不自由ではない。食堂へ行けば美食もできるしワインもウィスキーもある。

只電燈の数が減っているのと砂糖の無い事位であろう。それに目立たないものに革製品と金物類が少ない事である。それと反対に街で目に付く物は外国の駐屯兵の横暴と外国を追われて流れ込んだ慰安婦の横行だ。昼と言わず夜と言わず至る所で観光客の袖を引いている。ウンターデンリンデンの大通りや裏町の小ホテルは彼女達の巣窟だ。

ウンターデンリンデンはベルリンの代表的な大通りで菩提樹の並木があるので、この名がある。街の様子や人の感じが何となく日本に通ずる所があり懐かしい感じがする。店の装飾等の落ち着いた重々しい所に引き付けられる様である。建築物は国民性を表している様に堅実で寧ろ荘厳というべきであろう。

ケーニッヒ・リベ・シロス広場の宮殿は十八世紀の始めゲーテの設計による物と言われ正門のドームは六角形で堂々四方を圧し周囲の彫刻と柱毎にある五つの銅像はドイツの歴史上の人物であろう。その建築は帝政ドイツの往時を偲ばせる。

シプレー河の辺り宮廷前広場にはカイザー・ウィリヘルム一世の凱旋記念碑がある。パリー城下の誓いに、ドイツ大帝国を建設しカイザーの王位につき聯邦統一の偉業を完成し覇をヨーロッパに示した大帝の像は大理石の礎上にあり馬上豊かに凱旋当時の得意満々の有様を伺い知る事が出来る。台の下四隅のライオンは数々の軍機、戦利品を足で踏みつけ共に勝利を、誇らしげに高く吠えている様である。

その銅像を中心に左右両端にシプレー河に突き出して作られている大理石の楼台は、それ程大きくはないが屋上の高い所に勝軍の女神が右に大軍旗を手に巻いて持ち左には四頭立ての馬車を駈って天を行く姿は誠に豪華、雄大でこの記念碑こそドイツ魂の象徴とも言える物であると思った。博物館は古代ローマの建築に倣って官邸の左数丁離れてシプレー河に沿って建てられている。又ニコライ寺院はその中央の三個のドームと共に信仰の人々を集めている。

この辺り一帯に掛けられている数条の橋はそこに建てられている銅像と共に見事な調和を見せている。公園にある銅像、街に立つ記念碑或は建築の装飾物は立体的な物が多く至る所でその彫刻美を見る事ができる。パリーの様に名所は多くはないが一つ一つの建築が模範建築の様だ。

 其所此処を見物して数日を過ごした私はベルリンに左様ならをしてA君とも別れる事になったので、このベルリンに着いた翌日の赤ゲット振りを一つ。

A君と二人で街へ出て丁度、昼食時になったので或るレストランへ入った。入口で定食の代金幾らかを払ったが尚他に何か支払えと言うので幾らかの金を払った。すると直径五分位のニッケル色のメダルの様な物を呉れ、それとフォークとスプーンを渡して呉れたので二人はその儘奥へ入るとカウンターから一揃いの皿をボーイが持って来て呉れたので万事OKだ。

そこ迄は良かったが判らないのが、そのメダルだ。中央に25という数字と周囲に字が記してあるが一寸読めない。A君も私もドイツ語は判らないので聞く事も出来ない。

若しかするとデザートに何か出るのかと暫く待っていたが何も出て来ない。どうしても判らないので、その儘ポケットに入れてそこを出てしまった。後で判った事だが、このメダルの様な物はスプーンとフォークの代金のしるしで、話によればスプーンとフォークの紛失が多いので、之を防ぐ為先に、この代金を支払わせ紛失しても損のない様に、この様な方法を取っているとの事だ。帰りにスプーンとフォークと之を差し出せば先に払った金を返して呉れるのである。という事が判りそれならフォークとスプーンは持ち帰っても良かったのだなーと大笑いで、そのメダルは今も私の趣味の収集品として保存している。

 

 

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第十二章 ドイツ行から帰国迄(2)

一週間たった或日、ロンドンのローゼン氏から送金があった。米貨四百ドルでA君と二人で受取りに行く事になった。

先日此処へ着いた翌日、日本大使館を訪れた時の注意に「日本人は兎角、金を持つと誰の前でもこれ見よがしに、札をパラパラ出して買物をしたりする。如何にも日本人は金を持っていると思わせる様な癖がある。之が一番禁物で殊に此処では出来る丈少額の紙幣を使う様にして金を持っていると思わせない様にしないと、飛んでもない災難に会うかも知れない、何といっても現在の国民の収入が少いのみならず不自由に不自由を重ねているので金の出し入れは人目につかない様にしなければならない」と呉れぐれも注意されていた。

それで二人は、どの様にして金を受取りに行ったら良いのか相談した。ニューヨークだったら十ドル紙幣で四十枚洋服のポケットに入れてくれば何でもない。けれども紙幣マルクではとてもポケット位では間に合わない。そこで色々考えた結果手提げ鞄と大風呂敷を用意した。そしてホテルで何時も頼んでいる馬車を頼んで銀行へ乗り着けた。

銀行の窓口に積み上げられたその紙幣の束は千マルクを始め十マルク等の小額紙幣迄勘定するにも中々時間が掛かった。やっとの思いでそれらを鞄や風呂敷に包んで辺りを見回して元の馬車に乗った事には乗ったが、この馬車屋が変な気を起こして強盗に早代わりするのではあるまいか等と二人は顔を見合わせビクビクしていた。

無事にホテルへ着いてホットしたが今度は又別の心配が湧いてきた。室に置いて外出した後で消えて無くなりはせぬか、金だけでなく寝ている間にグサッと殺られるのでは、等と考えて実に厄介な事になったと、二人は心配でたまらない。幸い私は明日パリーへ出発するので旅費と小遣い丈をトーマスクックでフランに変え残り百五十ドル許りをトラベラーズチェツクに変えて行く事にしたので心配は無くなった。後に残ったA君はどうするのだろう。

後でA君に聞いた所によると私が出発した後は紙幣入りのトランクを毎晩枕にしたり布団の間に入れたりして寝て居たとの事であった。

 今のドイツは貴族も平民も差別はない。街の古道具屋や土産物店で何と驚く事に勲功によって与えられた勲章を一種の装飾用にメダルとして一個何百マルクの正札を付けて売っているのである。之等を見るにつけ敗戦国の悲哀を感ぜずには居られなかった。

私の泊ったホテルに五十才前後の貴族の立派な人が泊っていた。その人の話では(英語

)ベルリンの郊外に相当広い家屋敷を持っているが現在の状況では貴族でも衣食住の為には働かねばならないが自分はもう老年でもあり、それも出来ないから家を売りたいと思ってベルリンへ来たものゝそれが出来なかったので自分達三人は小さな室で暮らし他は全部貸したいと言っていた。家賃は六百マルクで良いと、今の物価からみれば随分安いと思ったがそれでも借りる人がいないので困っていると如何にも淋しげに笑っていた。

 

 

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第十二章 ドイツ行から帰国迄(1)

 欧州大戦は五年も続きドイツ軍は孤軍奮闘、連合軍を悩ませていたが千九百十八年八月、最後の大反撃も空しく連合軍の猛攻撃により先ずオーストリヤ軍が敗れ続いてブルガリヤが無条件降伏しトルコも之に倣った。

戦争中の国内の物資の欠乏はその極に達し且敗戦思想が広まり殊に永年、下層階級の中にあった社会主義はロシヤ革命に刺激されて、十一月始め国内の一部に革命の火が上がり之が忽ち全国に波及して遂にウイルヘルム二世はオランダへ逃れた。こゝでドイツ、オーストリヤ両国は一朝にして共和国になって終った。ドイツの敗北は実に思想戦で負けたのだ。

連合軍はこゝで過酷な条件を突きつけてドイツを屈服させ、ベルサイユ条約に調印させた。

国運を賭して戦ったが敗戦に終ったドイツは其の苛酷な条件に屈しなければならなかった。

その制裁を甘んじて受けているドイツはこの恨みは何時かは晴らそうと困苦欠乏に耐えつゝあるのだ。一千三百二十億金貨マルク、この巨額な賠償金をどの様にして払うのか!

 ハンブルグの街は暗い、一夜をパレスホテルに過ごしたが今日のドイツの現状、将来のドイツ、戦争の傷跡も生々しく人々に直接、間接に与えた影響は等とA君と語りあって夜を更した。

翌日は街を歩いて一日を過ごしたが、此処が北海ではこの国第一の貿易港だと聞く。その発展振りは敗戦国とは思えない程である。

ハンブルグからベルリンへの急行列車は戦前の時間より三時間程余計掛かるとの事だ。それは燃料に木炭を使っている為との事である。

ベルリンの停車場は流石に大都市の玄関でその構内も広大である。ベルリンとパリーを結ぶ幹線鉄道の集中する点に当り多数の引込線には多くの列車が煙を吐いて出入りも頻繁である。

プラットフォームから数十段の階段を登ると広い駅の本屋の構内に出る。外へ出ると馬車の客引がうるさく客を呼んでいる。馬車が多い。タクシーはガソリンの関係で少ない。ベルリンへ来て一番に感じた事は人々は何処へ行っても一生懸命、身なり構わず働いている事だ。パンも肉も切符制である事は言う迄もなく砂糖の代りに、コーヒー紅茶にはサッカリンが使われている。市中を走る電車は灯火管制の様に暗く食堂も又薄暗い。その電燈の下で怪しげな食事をしなければならない。

食卓の掛け布は紙製でリネンと殆ど区別ができない様に作られている。ナプキンも同様である。椅子のクッションも革と間違える程で勿論代用品である。タバコ屋では十本入りの小箱もあるが一本でも二本でも売ってくれる。

何といっても金貨マルクは賠償金として支払わなければならないので補助紙幣丈で国内の流通に当てゝいる。この為紙幣の価値は益々下る許りで紙屑の様になって終っている。米価一ドルは何千マルクという換算率となり恐ろしい程の金額の紙幣を手にする事となる。金貨マルクと紙幣マルクとの差は著しい。マッチ一箱何十マルク、タバコ一本でも何マルク、商店のウインドを見ると何千何百マルク、洋服やカメラ等は何万何千マルクと記されていて想像も出来ない様な恐ろしい数字である。

 

 


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