明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十一章 ヨーロッパ行(イギリスからオランダ迄)(1)

ニューヨークを出帆したのは大正九年十一月十三日であった。
荒木君が人形製造の機械を買う為にドイツへ行くのを機会に同行する事となった。

私は船にはあまり強いとはいえないが、太平洋での経験も有り少しは自信もあったので少し位のシケでは酔う事はない。

ニューヨークを出てから二日目に相当なシケに会ったが食卓へ枠を掛けたり棚の荷物を縛りつけたりした程度で無事大西洋を渡り十一日目に英国のサザンプトンへ着いた。

大英国の首都ロンドンでは二週間を、見物に或は日本陶器会社の特約店、ローゼンフィルド商会や、そこの斡旋で近郊の人形の製造工場や、玩具工場の視察で夢の様に過ごした。

霧に明けて霧に暮れるロンドンの冬は実に陰気くさい。

憧れのロンドンも来てみると建築物はニューヨークの現代式の無味乾燥な物と異なり古典的の装飾が施された古代建築で見事であるが煤けて汚いのには驚いた。

七階以上の高い建物は特殊の物を除いて見られないが如何にも古い都市の面影が偲ばれる。

午後三時頃になると電燈がパッと点いてそれが霧の中にボンヤリと光の輪を作り柔かな感じを与え建物のドーム等の影は薄墨色に浮かんで往来の人々の影も静かに何となく一幅の絵を見る様な感じがする。霧といっても日本のものと異なり灰蠟色で然も濃厚で深い。それが一日中晴れる事がない。原因の一つは、この霧の中には多量の煤煙が混じっているからである。

これは左右の建物を見れば判る。此処ロンドンではニューヨークと違い家並に然も各部屋毎でストーブを焚く様になっているので、各部屋の細い煙突が五本も十本も並んで屋根の上に立っている。

それから出る煤煙は霧の為高く上昇する事が出来ず、霧と混ざってモーモーと立ち込めるのだ。それで霧の色も鼠色になってしまう。市中の建物が薄黒く灰色に汚れているのも、その為である。その上、霧藻が房々と垂れ下がっている。

こんな有り様なので、もう日が暮れたのかと時計を見ると未だ午後四時前だ。晴れた日なら未だ日は高い筈だ。然し丁度夕方の六時か七時頃の感じがする。実に不愉快な所だと思い乍らも之がロンドンの冬だと思えば致し方ない。それでも一週間に一日か二日は晴天がないでも無い。この鬱とうしい冬も春三月頃になれば霧は晴れて美しい花の咲くロンドンになるという。

その陰気なロンドンの街でも欧州大戦後のこの頃では歓楽街は益々繁盛し犯罪の取り締まりは中々困難の様で婦人警官が二人連れで眼を光らせて巡視している。

電車は市中では通っていないが二階建のバスは縦横に市中を縫う様に走っている。少し変なのは、そのバスの切符が(勿論パンチが入っている)停留所の付近に無数に散乱して居るが誰も拾う人が居ない事だ。使用ずみの廃札ではあるが。

又私の感じた事は物を買う人も売る人も必ず「サンキュー」という言葉を交わす事だ。

ホテルのエレベーターへ乗る時も降りる時も又「サンキュー」、私の様な無頓着の者でもつい口に出る様になる。又外出する時は大抵ステッキを持って歩いている。

地下鉄も又実に気持ちがよい。一見鉄道の列車の様に見えるが綺麗で乗り心地の良い車である。

ロンドンで立派な建物といえばウエストミンスター寺院、国会議事堂等がありゴシック調の大建築で有名である。ロンドン塔は幾多の歴史を秘めている。王侯貴族の悲哀は、此処に残された残虐な処刑の器具が、それを物語っている。

タワーブリッジは八十三万ポンドを費してテームズ河畔に架せられた左右に高い塔のある大きな橋である。それで「塔の橋」と言われている。この橋は大きな船が通る時には中央から左右に開いて上がる。之の橋がロンドンの名物でもあり英国の誇りにもなっている。

バッキンガム宮殿を通り越してハイドパークに行くと隅々の入口にはマーブルアーチとか凱旋門とか英国の歴史を語るに、ふさわしい門がある。

トラファルガーの広場には英雄ネルソンの銅像が高く市街を見下ろし四隅に伏したライオンが偉勲を表わしている様だ。

ロイヤルエキスチェンジの辺りは流石世界の財界を左右すると言われている丈にこの取引所の周りは人で埋まり、狂人の様な雑踏振りは場外に溢れその喧噪は極まりない。

ピカデリー広場はロンドンの代表的な繁華街で街が常に雑踏を極め商店も繁盛している。

ロンドン滞在も、あと一日二日となった或日この地で勉強している森村茂樹氏を尋ねて日本料理、然も鰻料理を御馳走になった。

その店の名は「福稲」とか、はっきりした記憶は無いが兎に角日本人が経営している日本料理屋で特に鰻丼が得意で有名であった。遠い外国へ来て、こんな物が食べられるとは夢にも思っていなかった。味は日本で食べるのと少しも変わらなかった。

 

 

 

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