明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十四章 中京玩具商会(5)

注文を受けると同時に借金も亦増えてくる。一枚の約束手形は二枚となり三枚となり、その結果取引きを初めて一年たつか、たゝない内に名古屋銀行からは再三の注意を受け遂には不渡り手形で取引き停止となって遂に我商会も断末魔の運命に近づきつゝあった。

けれども尚最後の努力と製造に、家内一同の者を初め内職加工者を励ましては、みた物の一方では債鬼に追われ、納入も漸く其の三分の一に足らない様な有様ではいくら製品が良くても取引きが順調に行く訳がない。毎日、毎日注文の取消しや小言を聞く丈でも一と仕事だ。使用人の林という者も居なくなって終った。

女中や私が内職廻りをしなければならない。今ではそれも数が減って近所の五、六軒になって終った。この頃山田安太郎氏(当時渋谷要吉氏の事務員)の尽力で渋谷要吉氏(福住屋呉服店主で家主)から資金を借りたが瀬戸の窯元塚原三郎氏にも相当生地代がたまって来た。

この様な状態で商売にならないので山田安太郎氏の斡旋で瀬戸の二宮鉦松氏等と協議した結果渋谷要吉、二宮鉦松、山田安太郎の三氏並びに私との四名の合資会社として曽我商店を無条件で業務一切を譲渡して五千円の資本金で曽我渋谷商店として渋谷要吉と私が代表社員で登録をしたのは昭和十二年九月一日であった。

そして営業を続け注文残は新名義で納入し又新会社としての見本を各商舘に差し出して注文を請け、前に戻って仕事を続けた。

 其の年の十一月中旬には守山の渋谷要吉氏本宅の一部へ工場を移し業務は専ら要吉氏が担当し私は顧問格として随時出勤し、その相談役となり又見本製作に当たった。

この様になってからは元々資本金は渋谷氏の物で工場も自宅内に作られた以上は名実共に同氏の経営となり他の者は只名目のみの存在となり実権は要吉氏の物となった。

私もこれ以上商売をする気になれず、この会社が渋谷氏個人の物となっても少しの未練も残らない。そのうち渋谷方では付近へ工場を新築し渋谷商店という看板の元に営業を始めた。

が工業組合の関係上曽我渋谷商店の名前でなければ何事も出来なかった。

その後半年位は種々関係もあったが、段々疎遠となり絶縁状態となって唯残っている物は曽我渋谷商店の名義のみとなった。

これで、やっと肩の荷が下りた感じがしてはいたが未だ私の身の周りには相当の借金が付き纏っている。

 

 

 

※本ブログ記事には、現代社会においては不適切な表現や語句を含む場合があります。当時の時代背景を考慮し、文中の表現はそのままにしてあります事をご了承ください。


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第十四章 中京玩具商会(4)

一方他の業者は我々が注文を多く取っている事を知ってからというものは彼等の常として其の意匠や形状を模倣し低価格で粗悪な物を作り各商舘の仕入れ部に食い込み或は我々の見本を内職者より入手して其の儘注文を受ける等あらゆる手段をもって我々を妨害し又は豊かな資本を活用し我々の納期遅れに対しては之を自分の方に取り入れる等卑劣な行為の限りを尽くして漁夫の利を得ようと、あがいていた。

又悪辣な商舘に至っては見本を出させ注文は系列下の製造者に之を示し価格を定める等言語同断な事をする者もあった。

其の商舘(特に名を秘す)は英国向け輸出を主としていて英国の玩具商に有力な客を持っていた。我商会としては、さほど久しい取引きではなかったが我方の見本の優秀な事に何時も驚いていた。折も折数点の見本に対し近来稀な膨大な数の注文が来た。然も続いて何千哥(グロス)という追加注文は一年かかっても出来ない数量で我商会も納入の予想さえ出来なかった。

処が其れは我方の提出した見本の一部に過ぎなかった。

他に尚数点の然も確実に利益のある七吋位の着衣の簡単な人形と、他に四吋の三種組の物と尚外に一点は現在受注して製造中の黒人の子供の三種組の小型の物で其の数量は着せ付ビスク人形の始まって以来の大量な物であった。

勿論当方もその商舘を信用して居ればこそ、安心して見本も提出し得るのであって前記の注文も一応相談があるべきであるのに現在製造しつゝある品に対しての追加注文並びに前記の注文に対しては工業組合の玩具部部長の現職にあり平素組合で顔を合わせ昵懇の間柄である某製造家(名を秘す)(この人は名古屋市では一、二と言われる大工場を自営して自他共に許している大製造家である)その製造家に密かにその注文を受けさせ当方には一言の挨拶も無く無断で、之を作らせた事が後日判明したがこれは道義上許す可からざる行為である。

当然我が方へは来るべき注文も来なくなった。即ち当方は見本製造所の様に考え常に見本を手に入れ様と苦心していた。それだけ我方で作った見本は業界に重きをなしていたのだ。

 それとは別に又資金問題が起こってきた。

我商会としては以上の様な大注文の受け渡しには実の処相当の困難がある。材料の仕入れ人形の生地の注文には納期に間に合わせる為には資金が必要で有る。折角受けた注文は満足に納入して信用を得なければならない。それでなければ又前述の様な他の製造家を喜ばせる事になって終う。それで資金の調達に無理な条件が加わって収支伴わない高利の金も使用しなければならなかった。

その為に満足に荷渡しが出来ない事が度々あった。

 

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第十四章 中京玩具商会(3)

始めは裸体手足自由人形だけであったが、この儘では到底長続きはせず之を他に応用しなければ売れ行きも減少するに違いないと考えてからは、専ら着せ付け人形に留意し各種風俗人形や四季の風俗、又はその他の着せ付けをした物を、或は男女組に或は色取り合わせに苦心を重ねた物を作り各商舘の見本室を賑わした。

それで真の新見本は中京兄弟商会で無くてはならないという評判となり注文は益々増え現在の工場ではとても製造が出来ない状況となったので東区東大曽根に百五十坪位の(五百平方米)元陶器絵付工場跡を借り中京兄弟商会を曽我商店と名を改め大々的に製造を始めると共に受注にも全力を尽くした。

 その頃(昭和十年の春頃)から名古屋陶磁器工業組合から陶磁器の玩具を製造する者は組合へ加入して其の統制下でなければ営業できないという再三の交渉を受けたので市内三十余の同業者は協議の上、組合へ加入する事となり私と森岡氏の二人が其の代表として組合主事 城英一氏と数度の会見を行い諸条件を提出し相互の了解を得て八月二十七日組合では理事長井元為三郎の名義で加入承認の運びとなり同業者は夫れぞれ翌九月七日及び九日に二十余名の加入手続きを終え組合員となり新たに同組合絵付品部内人形部を組織する事となった。

そして評議員となり又人形部々長を犬飼勘次郎氏に副部長を私に委嘱された。

一方製品は寧ろ美術的人形とも言うべく製品としては最上の物であったが注文は常に価格に左右され思う様な仕上げも出来ない点が遺憾であった。

又工場と自宅との距離が遠く万事不便であったので工場を自宅に移し此処を中心に製造を初めた。内職の加工者は付近は元より数十町の所まで百軒以上を持ち繁盛を極めたが、元来商売人に出来上っていない私としては只々製品に重きを置き価格を無視しての製品であったのと、各商舘の望んで止まない商品であったので納期の遅れ位は問題にせず納品さえすれば客も満足して返り注文、追い注文は殺到した。以上の様な状態で注文は次から次へと殆ど一年中絶える事がなかった。然し受けた注文は何時も原価切れの赤字が多かった。

 

 

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第十四章 中京玩具商会(2)

私としては、それと同時に又顧問として従来通り毎月此処へ出張して見本製作に当った。

然し是れ又組合員の不統一、並に児玉氏の最初の計画に無理な点が有ったので僅か数台の機械を動かしたのみで挫折し、同組合は解散し工場は徒らに雑草の繁るに任かす運命に至った。

 昭和三年一月それ以前より山崎氏と内外面共に知友の東京セルロイド加工所々長藤安藤五郎氏よりの懇請に快諾して更に顧問として十六日同加工所に入社した。

同加工所には森村組時代の同僚荒木彦造君が日本玩具(株)解散後私より前に顧問として毎月一回出張していたが同君は今回LHH商会へ入社し日本代理店田代商店で勤務する事となり此処を辞したので荒木君との関係又山崎氏との関係もあって今度私が代わって顧問となった次第であった。

藤安という人は薩摩隼人の豪快な負けず嫌いな人物で何時も自家用自動車を乗り廻している業界の大物であった。然し貿易全盛時代が終り一度不況の風が吹くと忽ちその影響をうけ王子堀の内に在った大工場も維持出来なくなり藤安氏は勇退し債権者側の深見豊氏が代って経営者となった。私は深見氏の元で二、三ケ月間は月に十日間は出張していたが一時閉鎖して陣容を改める事となったので私も顧問を辞したのが大正七年の春頃だったと思う。

 中京玩具商会は栄生町の旧日本玩具(株)の敷地内の営業所から東区往還町へ移転して人形の製造以外に諸玩具を取扱って売子を北海道から九州地方まで送り卸売をしていた。

昭和五年〇月頃から貿易部を設け私は専らその部を担当し、小中君は内地部を従来通り引き受けていた。が会計は別になっていた。

然し内地部と貿易部は利害関係も伴って両立せずこの際分離してお互いに授けあって仕事をした方が得策ではないかと私は白紙で中京玩具を退社する事となった。

 そこで舎弟の鉄良と中京兄弟商会を作り杉村町の石田佐吉氏の工場の一部を借りて吹付塗装工場を設けドイツ式ビスク(半磁器製)自由人形、大きさは七、八吋(十八~二〇糎)の製造に着手した。その当時この式のラッカー吹付塗装の人形は他に無く(私が研究を重ねて初めてラッカーで仕上げる事を考えだした物)その為各商舘で好評を得て殊にストロング商会、ウインクレル商会より多量の注文を受け日本陶器会社では特別の取り扱いを受け又ウルウォース商会よりの注文もあり製造は多忙を極めた。

 

 

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第十四章 中京玩具商会(1)

  中京玩具商会 中京兄弟商会 曽我商店 曽我渋谷商店

   (東京玩具販売購買利用組合、東京セルロイド加工所、名古屋陶磁器工業組合)

 合資会社広進商会も経営の不手際により損失を招き遂に解散の止むなきに至ったので私は兼ねて広進商会と取引関係も有り錦窯組勤務時代の知友であった小中源一君の経営する自由人形製造会社へ入社する事となった。それで小中君と私の名で次の様な挨拶状を広進商会の取引先へ送った。

 拝啓

 時下甚暑の候に候処益々御繫栄の段奉賀候

 陳者小生儀予ねて合資会社広進商会を経営仕り玩具の改善に奮闘努力在罷候処不幸同

 商会を解散するの止むなきに至り申候は誠に遺憾に堪えざる次第に御座候

 就いては今般同商会と姉妹関係を有せし日本に於ける自由人形の最高権威中京玩具商

 会に顧問として入社仕り専ら製造上に於て品質の改善と嶄新なる意匠の案出に尽瘁

 仕り優秀なる製品を以て旧来の御恩顧に酬ゆる日も近き事と確信仕る次第に御座候

 先は右御挨拶旁々如斯に御座候

   大正十五年八月  日                     謹 言

                                曽 我 年 雄

此の挨拶状と共に小中君も次の案内状を出した。

 謹敬

 炎暑の折柄愈御健勝被為渉奉大賀候

 陳者当商会製造に係る自由人形は従来(合)広進商会に一手販売を特約仕り同商会よ

 り御注文に応じ申居候処今般同商会都合により解散仕る事に相成候に就いては爾今同

 御注文は直接当商会に於て益々製品の改善、発送の迅速とを以て御用命に応じ可申候

 間多少に不拘旧に倍し御愛顧御引立の程奉希上候

   大正十五年八月  日                     敬 具

                     名古屋市西区栄生町

                         中京玩具商会 小 中 源 一

                           電話西八七〇 接続 一九

                           振替 名古屋貯金八二三六  

 

 そこで中京玩具商会では人形の改良と販売を担当し、従来取引のあった広進商会の客廻りや各都市の百貨店等への売り込みに当った。その結果北海道の今井百貨店札幌本店では特約店として一手販売を引き受けて呉れたとか、東京では三越呉服店だけで販売する契約も出来た。

 私はこの頃予ね東京の知人児玉喜一郎氏が東京府小松川同𨳝会敷地内に新築した、セルロイド玩具村共同作業所を経営する事となり、顧問として招聘され毎月十日間くらい東京へ出張してセルロイド玩具の見本、図案及び製作等を一任された。

此の工場も種々の事情で見本の製作のみに止まり営業を開始する迄には至らず昭和二年の暮頃その経営を山崎宇一郎氏(同氏は永年アメリカ カリフォルニヤ州で農園を経営し成功後帰国、現に三映社という映画配給会社の資本主であり経営者である)に譲渡された事に伴い社名を東京玩具販売購買利用組合作業所と変更し所長となり諸準備を整え作業を始めた。

 

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第十三章 (合)広進商会(4)

こんな事が永く続く物ではない。それに大正十四年の夏から三ケ月も私は大病で寝て終った。大磯君一人で相当頑張ったが深い穴は埋める事も出来ないし又挽回する事も出来ない様になって終った。五カ月間、玩具の改善に努力した甲斐も無く、事こゝにきて解散するの止む無きに至った事は誠に残念と言うより他はない。遂に大正十五年七月始め債権者会議を開いて財産目録、売掛代金一覧表他解散に必要な書類を提出し了解を求め精算事務は大島君がその任に当たり、我々両名は債権者各位の同情により万事白紙に還元し債権、債務一切を免除され、ここに五ケ年の夢は閉ざされて終ったのである。

 拝啓 時下炎暑の候益々御隆昌奉欣賀候

 扨て数年前玩具の改善発達を企図し児童教育資料に貢献致度広進商会を経営し爾来

 奮闘努力在罷りしも力足らずして茲に解散するの止むなきに至り申し候顧れば既往

 広進商会の発展は全く各位の深甚なる御同情と御後援に拠る賜にして常に感銘致し

 居り候然るに御鞭撻を遂行し得ず斯界より遠ざかるを甚だ遺憾と存申候

 向後吾々両人の方針尚未定なるも生活を基礎とし従いては社会に貢献し得る業務に

 従事致度焦慮在罷候幸に獲得したる経験を善用し意義ある方面に進み再び相見ゆる

 の際は何卒旧倍の御愛顧御引立を切望致居候先は右御挨拶如斯に御座候

    大正十五年七月三十一日

                     名古屋市東区長塀町四丁目七番地

                               大 磯 文 一

                     名古屋市東区千種町元古井十五番地

                               曽 我 年 雄          

 

 

 


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第十三章 (合)広進商会(3)

関東大震災の一年前、大正十一年十一月二十六日従来の店舗が狭くなったので、下竪杉町一丁目二番地へ移ってからは益々忙しくなった。

震災後小田原で木製玩具の製造をしていた、倉橋連之祐という人が私が森村組に勤務中、度々取り引きで知合であった関係から震災で焼け出された二、三人の工員を連れて私を頼ってきた。そして名古屋で是非玩具の製造を始めたいので、資金を出して呉れとの依頼があったので、同人三名と協議して大正十二年十月取りあえず三千円を出して製造を始めた。倉橋木工所として直営の形で今迄の名古屋式とは異なり新しい木製玩具が生まれる事となった。

その結果震災後一年許りは一ケ月三、四千円程度の注文も忽ち一万円以上となり、その製造能力も倍加しなければならなくなり、材料の仕入れ、工員の雇入れ等の費用は別の会計で補わねばならなくなって来た。

これに加えて地方の商店の支払いが悪く手広くやればやる程資金が必要となり、その度毎に大島君より融通を受け三年、四年の間には相当の額になっていた。

一方商売の方は震災後一年半位は独占的地位を保っていた。

例えば輸出品の中から日本の子供に向く様な物を選んで売り子に持たせてやった。

又日本陶器のトイ・ティーセット(子供向けコーヒー椀揃)一組で三円も五円もした。

これに西洋料理食卓作法という豆本を付けてみたり、日米親善の為青い眼の人形が来た時には、これに同じ様に旅券と乗車船券や日米の国旗等を添えて子供心に備え又澄宮殿下の童謡を印刷し嵌め込み玩具として売りだした。これは同殿下へ献上の栄に浴した。

然し財政は益々逼迫してきた。その上震災後名古屋の玩具製造屋は激増し然も安物の粗製品で我々の製品を模倣し、地方を回り得意先を荒らし瀬戸では自由人形なども似て非な模造品を造り価格で格段の差のある物等が出始め、我が方は高級品で御座る式ではとても競争が出来なくなってきた。その上東西の百貨店も帝都が復興すると地元の玩具問屋よりの納品が旧に倍して順調になり、然も我々の数少ない特殊製品と異なり多くの商品を取扱う様になってからは、その注文も十の物は八に、八の物は六にと言う様に段々減ってきた。それでなくても地方の玩具屋等は、支払いが何時も延び延びになっていて、一度や二度の催促の手紙では埒があかない。つい出かけて行っても半金位しか払ってくれない。

それも後の注文を出荷してからでなくては、残りを送金して来ないという有様で、集金も中々容易ではない。資本は益々枯渇して終い大島君よりの借り入れも益々嵩んで、経営が頗る困難になってきた。仕入れの代金も遅れがちになり思う様に仕入れも出来なくなれば、それ丈注文を受けても出荷が出来ないという状態で、大磯君も私もソロソロ頭を悩ましだした。けれども尚一年辛抱はしてみたが、大島君の特別会計書を計算してみると借入金も相当の額になっていた。勿論決算期の総勘定は赤字である。

 

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