明治・大正・昭和を生きた日本人絵付師の生涯

美術、陶器、戦争、NY渡米、渡欧。明治・大正・昭和を生きた夫の曽祖父の自叙伝。大変興味深い内容でしたのでブログにしました。

第十章 ニューヨーク市所見(1)

ニューヨークの生活は淋しいがその中でも楽しく呑気な所があった。 家庭の雑事も無く、金をポケットにジャラつかせて居れば食べる心配も無く土曜日は半日、日曜日は自分の身体で勉強したければ勉強もできるし遊びたければいくらでも勝手に遊ぶ事も出来る。サ…

第九章 ニューヨーク生活(3)

明治四十五年七月三十日 日本では天皇が崩御せられ在留邦人は謹んで喪に服した。 翌三十一日 年号は大正元年となり在留邦人は皆黒の服装を着る事となった。 大葬遥拝式は九月十二日午後九時(国内では十三日)第七街と五十七丁目角のカーネギーホールで行わ…

第九章 ニューヨーク生活(2)

友人達は「ホームシック」に罹らない様にと、日曜日には市中の見物や或は重役の家へ案内して呉れる等色々慰めて呉れた。地下の食堂とか、支那料理屋や時にはホテルの食堂等へも連れて行って呉れたり一日も早くニューヨークに馴れる様面倒を見て呉れた。 さて…

第九章 ニューヨーク生活(1)

W君はブロードウエイの森村ブラザーズの近くのワシントンプレスにある英国人の婆さんが経営している下宿屋へ案内して呉れた。彼女の名前はミセス・チャザムといって五十才位のデブデブ肥った大きな人だった。(Mrs.Chatham 74 WASHINGTON PL., N.Y.) この…

第八章 渡米(横浜出帆からニューヨーク迄) (3)

七月七日 月曜日 午後二時十分発の列車はシカゴ、ニューヨーク間千哩余を(千六百粁)十八時間で走る「二十世紀特急」という超特急で一時間で六十から八十哩(百~百三十粁)走る。 この間止まる駅は九ケ所でニューヨーク近くのオルバニー(OLBANY)という駅…

第八章 渡米(横浜出帆からニューヨーク迄) (2)

サンフランシスコ市からシカゴを経てニューヨーク市へ着く迄の旅日記を記してみると。 七月三日午前十時二十分 サンフランシスコの対岸オークランドから南太平洋鉄道会社(SOUTHERN PACIFIC R.R)の一等寝台車(PULLMAN CAR)の人となってこの駅を離れた。 …

第八章 渡米(横浜出帆からニューヨーク迄) (1)

明治四十五年六月十六日午後三時横浜港を出帆した東洋汽船会社の天洋丸は 一等船客 百七十三人 二等船客 五十八人 三等船客 四百三十九人 私は二等船客の一人であった。 出発の合図の銅鑼がなった。見送る人はハンカチを顔にあて或はテープを手に持ち、それ…

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (3)

当時田中幸三郎氏が(以前京都出張所主任)名古屋の主席で錦窯組を併せて総括していたが、この人こそ典型的な森村組を代表する人材で厳格で私無く常に率先窮行よく数百人の事務員、数千の画工を率いてその実績を挙げさせていた。 父は明治四十一年七月、二十…

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (2)

本店の主任は中村太郎という前に関西貿易にいた人で仕入れ、見本等の監督をしていた。庶務には伊勢元一郎と深尾元邦という人がいて、この三人が森村家の三太夫であった。 この他に堀越和三郎という若い事務員や田村という森村家に縁故のある人が見本係をして…

第七章 森村組勤務(日本陶器会社) (1)

私の生涯の三分の一はこの月給生活であった。学校を出て専攻した絵画で世に出ようとした希望は卒業してみれば世の中というものは中々自分の思う様には行かないもので愈々となると目的も希望も変えなければならない羽目に陥るものだ。私が夫れだった。 森村組…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(8)

八月十四日 歩兵二個中隊乃至砲四及至六門を有する敵が午前五時頃我前面の三角台を占領し金山堡付近に来襲した。旅団は警急集合をし我大隊は午前八時五十分宿営地を出発、そして歩兵第十八聯隊長の指揮下に入り汗溝及び七家子を経て三角台に向ったが七家子に…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(7)

時に四日月は淡く西天に懸り星数は少なく静寂が辺りを包み犬の遠吠えが何となく無気味だ。今や我部隊は敵中に居るのだ。零時三十分支隊長より次の命令を受けた。 一、昨朝三十里堡二於テ敵ノ乗馬歩兵約五十騎、我将校斥候ト衝突シ北方二退却セ リ、第五師団…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(6)

三月十二日 後民屯に着き舎営、十三日も亦滞在した。大隊の会報に 一、奉天付近ノ開戦ハ一ト先ズ終局ヲ告ゲタリ。何時行動ヲ始ムルヤモ知レズ。依テ 総テノ諸準備ヲ成シ置クベシ。 二、携帯口糧ハ以前ノ如ク四日分携行セシムベシ。 三、敵状二付イテハ第二軍…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(5)

三月十日 この付近は我々が着く前に第九師団が苦戦した所で、今尚敵は桃家屯付近(約四千米南東)に居り堅固な陣地に立て籠っている。我々の任務はこれらの敵を撃破し第三軍を援助する事である。午前二時 大石橋東南端、街道寄りの畑地に肩墻を構築し、工事…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(4)

三月七日 今日も終日繰り返し楊子屯の敵砲兵を砲撃したが、敵の火力は尚衰えず昨日に増して激しく夜になっても砲撃は止まなかった。我方は午後九時頃砲撃を止め宿営地に戻り警急宿営をした。午後十時四十分 第八師団の命令を受けた。 第八師団命令 於 大楡樹…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(3)

三月二日(木曜日)この日私は中隊段列の指揮官として後方陣地にいたので、直接戦闘に参加しなかったが長灘に本隊を置いていた敵も昨日、月泡子と年魚泡の戦闘に敗れ長灘を捨てゝ退却を始めた。我中隊は終日之を長灘の北方へ追撃した。本隊の第一、第二中隊…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(2)

明けて三月一日(水曜日)この日天気は晴れていたが寒風は身を切る様に冷たい。 払暁、かねて工事をして置いた渾河右岸(蕜菜河子の西方)畑地に砲列を敷いて月堡子と年魚泡の敵陣地に向って砲撃を開始した。これが奉天付近の大会戦の第一日であった。 我大…

第六章 日露戦役 - 奉天付近の会戦記(1)

一人の絵描きも今は陸軍砲兵少尉として出征する日がきた。 武豊港へ到着した後備独立野戦砲兵第二大隊は朝から資材、馬匹等の積み込みで、兵隊達は目の回る様な忙しさだ。この船に乗船する部隊は後備歩兵第五十二聯隊本部及び第二大隊(一中隊欠)後備独立野…

第五章 兵役時代(2)

動員令は三月六日第三師団に下った。私も軍籍にあるので絵筆を捨てゝ第一線にたつ秋が来た。三月八日充員招集に応じ第三聯隊野戦砲兵補充中隊に入隊した。 第三師団は第一、第四師団と共に、第二軍に編成された。 四月十三日午前十一時七分愈々動員令が我々…

第五章 兵役時代(1)

昨日の美術家も今日は三分刈りの丸頭で衛兵の立っている第三師団野戦砲兵第三聨隊の営門を潜ったのは明治三十四年十二月一日の午前七時頃だった。 六名の一年志願兵は第六中隊付となって教育を受ける事となった。 兎に角画筆より他に重い物を持った事の無い…

第四章 京都下宿時代(3)

今では書生等という言葉は使わないが当時は学校の生徒でも書生さんと言った。そして決まって黒の紋付き羽織に小倉の袴で羽織の紐は白で二尺位(約六十糎)もあった。それを先の方で結び首に掛けて歩いていた。下駄は朴歯の太い鼻緒のついた桐の厚いものでゴ…

第四章 京都下宿時代(2)

主な事は万事女将が切り回していたが下宿代の事等はあまり督促がましい事を聞いた事が無かった。下宿人は全部で十二、三人は居た様だ。私は始め二階の三畳七分五厘という四畳に足りない隅の室で半年許り辛抱していた。下宿代も安かったが三畳七分五厘舎の主…

第四章 京都下宿時代(1)

明治三十一年三月父が名古屋へ転勤してから下宿生活となり最初京都の中央、活花の家元池の坊で名高い六角堂の門前鐘楼の傍らに父の知人の煎り豆専門の店があった。一先ず其の家へ下宿し其所から寺町丸太町の学校へ通学していた。が道も遠く何かと不便なので…

第三章 美術工芸学校時代(3)

北条静という人の所へ停雲に誘われてバイオリンを習いに通ったが半年許りでやめた。彼はその後一人で通っていた様だ。 学校では月に二、三回郊外写生の課目があるので、その日は思う儘、山野を跋渉し一日を郊外で過ごした。その服装といえば黒紋付の羽織袴で…

第三章 美術工芸学校時代(2)

明治三十一年三月父が名古屋の森村組出張所へ転勤となったので、私は下宿生活をする事となった。最初は父の知人であった六角堂前の煎豆屋の二階を、三食付き月五円五十銭で泊っていた。同級生に川端敬雄(春翠)(卒業後山元春挙先生の門下となり草笛会の同…

第三章 美術工芸学校時代(1)

予備科では翌々年の三月迄、横山大観先生の指導を受け、絵画本科へ進学してからは鈴木瑞彦先生に教えを受ける事となった。当時考古学、美術史は校長今泉雄作氏が担当して居られた外、富岡鉄斎、竹内棲鳳(栖鳳)菊池芳文、山元春挙等の諸先生が居られ京都画…

第二章 京都伏見時代(3)

そこで腕白小僧も東京から京都へ来て、板橋の学校へ神妙に通学していた。 処が丁度付近に住んでいた稲荷の神官の息子で一級上の道楽者?私より以上に腕白で怠け者が、登校する時の良い道連れであった。毎朝誘って呉れるので始めは誠に良い友達で親切な人だと…

第二章 京都伏見時代(2)

父は京都陶器会社へ図案部長として招聘され既に勤務していたので間も無く付近の一軒の家を借り、そこへ移った。伏見稲荷神社の直ぐ傍であった。 私は学校へ通わなければならないので伏見桃山の麓にある板橋尋常高等小学校高等科一学年へ転入した。こゝで当時…

第二章 京都伏見時代(1)

先に京都に行っていた父から東京を引き払って京都へ来るように連絡があったので母一人で荷物を整理して住み慣れた小梅村を後に親子四人は一刻も早く父に会いたいと新橋駅を発ったのは明治二十三年秋も末頃の十月ではなかったかと記憶している。 汽車というも…

第一章 小梅村腕白時代(4)

又母校の面影を明治四十一年五月二十四日発行の中和温故会々報第三号へ寄稿した。その文章の一部を記載して再び当時の記憶を辿って見よう。 ◯母校の面影 僕の記憶— — — —十八年前、母校を遠去かってから、常に無邪気な小さな胸に印せられていた学校、その腕…